6月 03

ふと常々考えてることに、ニュータイプ的ひらめきで一本の筋が通った。

 
善、善いこと、綺麗な事を追求しすぎたが故に
ナチズムや天皇万歳は成り立ち、密告は成り立ち、十字軍が成り立ち、
宗教戦争が成り立ち、喫煙者は少々過剰な社会的抑圧を受け、PL法は生まれ、
薬剤のネット販売規制につながり、蒟蒻畑は政府主導で一時販売禁止され
教育現場では順位付けしない徒競走など競争社会の事実を隠匿し、
その過保護の流れから青少年保護法は生まれ…(ry

と、これらすべては1つの事実から発した事態だと気づいた。
人は基本的に “善いことが好きという悪しき本質” を持っているという点において。

 
 
そりゃあ悪いものよりは当然善い物のほうがいい。
誰も悪い状況は避けたい。悪く思われたいとも思わない。
それは例えば体に善い食事など身の回りの話から社会的なものまである。

そのおそらく個人としての善が、個人主義社会として必須携帯の論理、
自分が嫌だと思うことは他人にはしない=自分が嫌だと思っていることは
他人(社会)にもされたくない、という転換を経て社会的な善の流れを作り上げ
その善を皆が無意識的に求めるようになると、やがては現実を無視しし始め
理想主義社会=社会主義・共産主義のトップダウンの管理社会が生まれる土壌となり、
社会から降りてきた観念的な善は、他を抑圧する大儀になり善は感染し
より強い善を崇める善のループ、スパイラルが起きる。
そして、突き詰め過ぎるとソ連を代表する理想社会と言われた
共産主義国家が崩壊したように自我崩壊する。
おそらく善という信仰を発端にこれらの歴史事実はすべて起こった気がする。

ブログの炎上とかあるけど、あれはいかにもネットらしい善意の皮を被った悪意の発露だ。
自分は善=多数派の側で物をいっているから、そこに反する意見は寄って集って
封殺・蹂躙してもいいという人間の凶暴性を善が露わにさせている。
煉獄への道は善意で舗装されているを地で行くとでもいうか。

 
 
 
日本もかなりの綺麗事が好きな世の中になっているというのはたぶん誰しも
感じているはず。そして、そこに何か違うなぁ?という感覚も持っているはず。
けど、誰もがその窮屈な状況を憂いながら、たぶん自分は
そこに加担しているつもりはないと思っているはず。
自分もそう思っていたけど違ったようだ。ショックだ。

つい最近銀座でダイヤモンドタダで配って騒動になってるニュースを見た。
平日の昼間っから何だこの気持ち悪い欲豚の群れは…エコバックでも似たことあったなと。
そう思っていたけど、実はこの意識がすでに社会に対して善いこと・綺麗事を
無意識に求めている自分であったことに気づいた。
こういう世間に流れる全うな”人間らしい醜い欲” を否定するところからも
たぶん善意で舗装された道は始まっている。綺麗事を外に求めるという点で両者は同じだ。
そしてメディアはそういう意識を伝播・増幅させる装置になっている。
日本のTV視聴時間は世界トップという話だけれども。余計に広範に影響が出やすい。
TVに限らずブログ炎上とか見る限りネットでも同じようなことは起きている。

こういう小さな意識の集合が、社会的に善を最上のものとして尊ぶ流れを作っている。
そして確かな正解ともいえないけど悪いことではないからとルールが出来上がる。
一見すると細かいルールが整った社会は成熟した社会に見える。
でも細かいルールが出来上がるほどに
個人の責任は薄まり社会的責任を問う流れが大きくなる。
過保護は社会主義ひいては管理社会へと傾倒する道になる。

 
 
もちろん個人レベルの手の届く範囲の善は全く持って悪いことじゃない。
ごみそこらへんに捨てないとか。分煙するとかの最低限の個人で出来るマナーは守るとか。
ところが、社会レベルの巨大なところで観念の形だけで実を持たない形で移行した途端、
善意は人を狂わせる化け物になる。それは大儀となり社会から降りてきたものであり
社会すべてに適用されるべきものと思い込むようになる。善いことなんだから、と。

歴史上起こったファシズムはいまから見れば簡単に悪と見ることができるけど、
その時代の大衆にとってそれは善だったからこそ成立し
そこに人は強烈に引き寄せられたはず。その時代に自分が生まれて
現時点で考えるのと同じような振る舞いができたかは怪しい。

 
行きすぎた善、善という信仰に注意を払っていないと自分も密かに、無意識に、
綺麗事が蔓延する社会を作ることに加担してしまっているかもしれないですね。
日本は特に昨今の規制・規制の流れから、その発展途上にある気がします。
世界史において宗教が大衆をコントロールするものだと言ったりするけど違う。
善が大衆をコントロールする。宗教がなくても善の下には人は集まる。

そういう意味では、銀座の騒動はいい思考実験だった。
これには君子豹変すとコペルニクス的転回が有効そうです。
自分を疑うことと1つの意見に固執せず、ひょいっと改められること。
そうすることで善をどんな場面においても唯一絶対の至上のものとする、
まるでかつての天動説のような誤りから自由になれる気がします。

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