7月 11

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

 
一足先に「風立ちぬ」観てきました。
一言。素晴らしかった。

 
鈴木敏夫Pがパーソナリティーをやっている
ジブリ汗まみれのラジオの招待で80組160名応募に当選。
5000件も応募があったそうだ。よく当たったな。
ご招待ありがとうございましたm(_ _)m

以下、感想・分析を個人的に。ネタバレ含みます。

 
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※まだ自分の中で引っかかったキーワードのみ羅列。
 一部しか、文章になってません。

 
─ ロックだった
もう全部一言でひっくるめるとロック。
宮崎監督のロックを見せてもらえました。

広義のロック、そして、何よりも純粋なロック。
ロックといったら内田裕也とかYAZAWAとか、
そういうビジュアル的な意味のロックじゃない。
本当に根源的な意味での、装飾を取り払ったロック。
自然権ともいえる人の中にある普遍的なロックだった。

最近、pillows掘り起こしてるけど
fools on the planetの風吹く感じと
同じものが映画に乗っていた。
読後感じゃないけど、観後に感じるのは
ひたすら “風” が体を吹き抜けていく感じだった。
自分の中で、本読むにしても映画みるにしても
一番好みの体験の形。

 
 
─ 試写応募時に送った汗まみれラジオの感想

“ポニョ前後から、かれこれ5年?でしょうか。
リスナーをしてきて、この間にアリエッティにコクリコがあり、ジブリがそのときの時代をどう捉え、何を考え、何作るのか、また作品がない期間は鈴木Pの話と、毎週、聞く度に紹介作品の内容や物を考えるいい機会になってました。

今回の「風立ちぬ」では、ラジオで触れられていた宮崎監督の考え方が、すべて凝縮されているような作品になっていると感じています。
揺れる時代の狭間での人のあり方ということで、堀田善衛・堀辰雄さん以外に、鴨長明の「方丈記」や司馬さんもそこにあるかもしれません。
作品を見るのがホント楽しみです。”

 
 
─ “風が立つ(吹く?)、生きようとすることを試みなければ”

 
 
─ 本庄(本上?)のある一場面での口癖 “矛盾だな”
宮崎監督は、本庄として作品に自身を介入させていた気がする。
裏付けるような、貧乏揺すりの癖も。

宮崎監督は、絶望の位置からのぞむ希望を作品にしていると思っている。
それは一度絶望に落ちなきゃ生まれない強い欲求で、現実、
リアリズムが突きつける絶望の論理に強く惹きつけられながらも抵抗する、
強い自己矛盾・自己葛藤が、宮崎監督に希望の作品を作らせているんだと思っている。

たしか自身でも矛盾の人、ラジオでも鈴木Pに矛盾の人
あちこちで“矛盾”というキーワードが宮崎監督の
属性として語られていた気がする(うろおぼえ)

 
 
─ レイアウトが宮崎監督の集大成な気がした
素晴らしすぎて、そこで泣いた。やられっぱなしだった。

紅の豚は、何だか独り言の多いキザな豚さんだな、と
あまり世間の皆様ほど好きじゃないんだけど唯一好きだったのは
空、雲の上へ登っていく仲間の飛行機たちのカットだった。
それを今回、自らオマージュしてるカットがいくつかあった。

 
 
─ 好きなイタリアの音楽、ドイツの硬い音楽いろいろあった。
一種の宮崎監督の美意識と言うか
趣味・趣向が音楽の切り替えで表現されてた。

 
 
─ ボイスSE
声でSEを当てているというのは前情報として知っていた。
それがあまりに効果的でゾクゾクした。
関東大震災のときのSEで、低音ボイスを少し加工したようなボーーーという
サイレンみたいな、印象派な使い方したSEのおどろおどろしさは
味わったことない寒気すら感じるほどの音響効果を生んでいた。

これは映画館でみて良かったとおもった点。
音響効果的な意味で、映画館でみてよかったと思ったのは久しぶり。
自分あまり映画館の音が得意じゃない。

たとえば洋画のオフィスシーンなどで、後ろから誰かが歩いてきて
カメラに映りそのまま前へ進むみたいな足音のとき、
スピーカーのある高い位置で、劇場の観客席の後ろから
スクリーンへ向かって足音が前へ行くようなあて方になる。

これは大嘘だ。
リアリティ追求してるつもりで、まるっきり大嘘の擬似的な
音響演出でしかない。画面をはみ出させたつもりだけど、他の場面では
カメラの背後にある映らない側の音響なんてつけてなかったりする。
つけてあったとしても、なぜか画面の前側で起きている事象の音を
劇場の前後左右に振っている。もはや空間的な意味がわからない。
迫力重視でそういう擬似的な演出しているに過ぎない。

こういうリアリティ装った嘘がどうも苦手だ。
だったら、2chステレオの家ヘッドフォン視聴でいいや
別に後ろから歩いて来なくていいし画面方向から
鳴ってくるだけでいい、となる。

そして同じ嘘なら、今回のような印象派な
イマジネートされた音響のほうが
いろいろ感じるものがあった。

 
 
─ 3DCGの使い方・演出がよく制動されてて好みだった
カメラマップは主観カットであるべきという持論があるけど
それに沿うように、うまく抑制されて効果的な使い方されてた。
2.5D表現は、3D背景の中、3Dカメラの近くにキャラ配置すると
カメラマップ3D背景と2次元キャラが分離して違和感となる。

それは現実だと、カメラに近いものほどレンズによるパースが出るからで
2次元キャラのパースを現実並に表現することは
ロトスコープアニメーション以外無理なので、違和感になる。
カメラから離れてキャラを置けばパースが出ないので、違和感を感じづらい。

それが、ほぼカメラマップを使うカットでは、
キャラを遠くに置きパースが出ないよう平行的・平面的に撮る
または主観カットとしてキャラを映さず、奥へ奥へ進む
画面効果を上げるためだけに使われていた。

スタジオ4℃が先駆的だったカメラマップ技術。
当初はそういう制動された使い方に限っていたが、
ここ10年は氾濫的になんでも2.5Dだ3Dだといって違和感感じるけど
回り込みカメラで迫力でればいいだろ的な雑な使い方で、辟易していた。
理想の使い方だったと思う。

 
 
─ 時代をまたぐときの背中と“列車”
少年期の二郎が背中をカメラ側に見せて部屋を
奥へ行くカットから、青年期の列車の中へのカット繋ぎ。
背中カットからの場面ジャンプは、もう一度あった気がする。
この背中を使った演出は、自分が妄想の中でやったら
うまくいく演出だろうなぁと思いつづけていたものだったので、
やっぱり成立するんだと思った。人の背中は、見てる側に思慮の時間を作る。

 
 
─ 普通のプロの声の役者は、皮、着ぐるみをうまく
着て操れるのが声優なんだというのを再認識した。

声優は、その“作品の役”になりきることが求められる。
けど、作品によっては、それが求められないほうが
より説得力を持つ場合があることを「風立ちぬ」で感じた。

 
発表時に、ドワッと騒ぎになったように
主演の声優はエヴァ等の庵野秀明監督。

上映前に、汗まみれの公録があり、
鈴木PとTokyoFMのパーソナリティーのトークが繰り広げられた。
(※8/11の23:00 TokyoFM放送予定)
そこで、鈴木Pが次のような感じに触れていた。
 
「役者は(声で)そのときのキャラクターの意図を伝えようとしてしまう。
 庵野は何考えてるか分からない話し方をするから採用した」
(※だいたい内容はこんな感じ)

そして、実際に映画をみるとそれがよく分かる。
これは役者が上手くやってしまっては、ハマりすぎて
“作品・画面の中のキャラクター” になってしまう。

けど、庵野監督が声をやったことで
画面から何かはみ出る、生々しいものがある。
訓練された役者が捨てる必要があった、リアルな、
いい意味での泥臭い感じが作品・画面の中からはみ出す、
生きた存在感を醸しだしていた。

 
常々、映画等の役者とか見てて思うのは
演技として皮をかぶったキャラクターとしての存在ではなく
その人自身そのものの存在をさらけ出すのを、見たいと思うことがある。

演じてるものの先に、作り上げられたキャラクターの属性ではない
役者そのもの自身を、ほんのチョットでもいいから
はみ出させたのを見せて欲しいと思うことがある。

嘘で包んだものじゃなくて、
「春日くんのグッチョグチョでドロドロしたものが見たいの!」って感じだ。
惡の華の仲村さんだ。

これは着ぐるみでいえば、ふなっしーとかまさに
チープな着ぐるみ部分がいまにも破けて、中身が
はみ出んばかりのパワーで着ぐるみを操ってる。
中の人を想像したいと思わせるだけの、はみ出ようとするものがある。
だから面白いし、ここまで人気になったんだと思う。

・・・って、何でふなっしーの感想になってるの。
最近、初めて動くふなっしー見たせいだ。

 
話を戻す。
映像芸術の映画もそう。
しかもアニメーションとなると、
基本、嘘っぱちの絵で構成される作品だ。
そこにジブリキャラの造形にピッタリあった声を当ててしまうと、
嘘の絵に、さらに嘘のキャラクターの声が
塗り重ねられていくだけにしかならない。

普通のアニメ作品は、それで十二分かもしれない。
たとえば、ラピュタは創作であって現実じゃない。
だから声優さんの演技が至極はまっていて
イマジネートされたファンタジー作品として面白かった。

けど「風立ちぬ」は、創作といっても
現実の歴史を足場にした作品だ。
絵の嘘に、耳馴染みの良いキャラクターボイスを
合わせて完結しては、創作ファンタジーとして
見られて終わっていたかもしれない。

 
そこを、誰かになるのが得意な役者ではなく
庵野監督がやることで、嘘の絵で作られる中に
1つ素朴な生っぽい現実があるのを感じた。
その真実味を帯びた何かが、これがただのファンタジーや
作り事だけではないことを終始伝えようとしていた。

堀越二郎・堀辰雄という現実に存在した人間を、
ただ、創作キャラクター化して据えただけではなく
庵野監督の声が乗ることで、いい意味でバタ臭く、泥臭い感じが
作品・画面の向こう側に人間の存在感を作り上げていた。
「風立ちぬ」の内容を考えると、これ以上の形はなかったと思う。

 
以上、これは映画を見て一番強く感じたこと。
そして、この存在感の息吹は、最初の段で触れた
“宮崎監督のロック”の礎となって、映画全編をおわりまで支えていた ─

 
 

※他、近年ジブリ作品のアリエッティの感想などはこちら

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