5月 26

完結。よかった。

いろいろ書く所はあるけれど

 
成長したわねアルベルト…っていう表情と、

ep6ではマイナーな解決だったものが
ep7ではメジャー解決をしていた、
祈りのように始まり、希望を成して終わる
ep7の話を象徴するようなAimer+澤野弘之のED曲と、

昨今の日本の状況と、

2001年宇宙の旅や
真・女神転生3マニアクスの理
スキズマトリックスの「熱」といった
全く別作品だけど、底流を同じくするような
フロンタルとの観念的なシーンと、

いろいろ積み重ねて
取り込んできたものが集約されていた。
あと昨今珍しい、大人がちゃんといる作品だった。

 
 
宮﨑駿監督は、ガンダムというものを
どう見てるんだろうか?

こういうの(戦争もの)作らないと自制してきた人で、
ファンタジックなもの作ってきたけど
裏側は、モロこの手の人だ。
ラピュタだったりナウシカ(原作)や
戦争に対する本人の弁見てるとわかる。

そこらへん、過去の本人談の記事等収拾して
公証して見通し立ててくれる論考があれば見てみたい。




7月 11

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

 
一足先に「風立ちぬ」観てきました。
一言。素晴らしかった。

 
鈴木敏夫Pがパーソナリティーをやっている
ジブリ汗まみれのラジオの招待で80組160名応募に当選。
5000件も応募があったそうだ。よく当たったな。
ご招待ありがとうございましたm(_ _)m

以下、感想・分析を個人的に。ネタバレ含みます。

 
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※まだ自分の中で引っかかったキーワードのみ羅列。
 一部しか、文章になってません。

 
─ ロックだった
もう全部一言でひっくるめるとロック。
宮崎監督のロックを見せてもらえました。

広義のロック、そして、何よりも純粋なロック。
ロックといったら内田裕也とかYAZAWAとか、
そういうビジュアル的な意味のロックじゃない。
本当に根源的な意味での、装飾を取り払ったロック。
自然権ともいえる人の中にある普遍的なロックだった。

最近、pillows掘り起こしてるけど
fools on the planetの風吹く感じと
同じものが映画に乗っていた。
読後感じゃないけど、観後に感じるのは
ひたすら “風” が体を吹き抜けていく感じだった。
自分の中で、本読むにしても映画みるにしても
一番好みの体験の形。

 
 
─ 試写応募時に送った汗まみれラジオの感想

“ポニョ前後から、かれこれ5年?でしょうか。
リスナーをしてきて、この間にアリエッティにコクリコがあり、ジブリがそのときの時代をどう捉え、何を考え、何作るのか、また作品がない期間は鈴木Pの話と、毎週、聞く度に紹介作品の内容や物を考えるいい機会になってました。

今回の「風立ちぬ」では、ラジオで触れられていた宮崎監督の考え方が、すべて凝縮されているような作品になっていると感じています。
揺れる時代の狭間での人のあり方ということで、堀田善衛・堀辰雄さん以外に、鴨長明の「方丈記」や司馬さんもそこにあるかもしれません。
作品を見るのがホント楽しみです。”

 
 
─ “風が立つ(吹く?)、生きようとすることを試みなければ”

 
 
─ 本庄(本上?)のある一場面での口癖 “矛盾だな”
宮崎監督は、本庄として作品に自身を介入させていた気がする。
裏付けるような、貧乏揺すりの癖も。

宮崎監督は、絶望の位置からのぞむ希望を作品にしていると思っている。
それは一度絶望に落ちなきゃ生まれない強い欲求で、現実、
リアリズムが突きつける絶望の論理に強く惹きつけられながらも抵抗する、
強い自己矛盾・自己葛藤が、宮崎監督に希望の作品を作らせているんだと思っている。

たしか自身でも矛盾の人、ラジオでも鈴木Pに矛盾の人
あちこちで“矛盾”というキーワードが宮崎監督の
属性として語られていた気がする(うろおぼえ)

 
 
─ レイアウトが宮崎監督の集大成な気がした
素晴らしすぎて、そこで泣いた。やられっぱなしだった。

紅の豚は、何だか独り言の多いキザな豚さんだな、と
あまり世間の皆様ほど好きじゃないんだけど唯一好きだったのは
空、雲の上へ登っていく仲間の飛行機たちのカットだった。
それを今回、自らオマージュしてるカットがいくつかあった。

 
 
─ 好きなイタリアの音楽、ドイツの硬い音楽いろいろあった。
一種の宮崎監督の美意識と言うか
趣味・趣向が音楽の切り替えで表現されてた。

 
 
─ ボイスSE
声でSEを当てているというのは前情報として知っていた。
それがあまりに効果的でゾクゾクした。
関東大震災のときのSEで、低音ボイスを少し加工したようなボーーーという
サイレンみたいな、印象派な使い方したSEのおどろおどろしさは
味わったことない寒気すら感じるほどの音響効果を生んでいた。

これは映画館でみて良かったとおもった点。
音響効果的な意味で、映画館でみてよかったと思ったのは久しぶり。
自分あまり映画館の音が得意じゃない。

たとえば洋画のオフィスシーンなどで、後ろから誰かが歩いてきて
カメラに映りそのまま前へ進むみたいな足音のとき、
スピーカーのある高い位置で、劇場の観客席の後ろから
スクリーンへ向かって足音が前へ行くようなあて方になる。

これは大嘘だ。
リアリティ追求してるつもりで、まるっきり大嘘の擬似的な
音響演出でしかない。画面をはみ出させたつもりだけど、他の場面では
カメラの背後にある映らない側の音響なんてつけてなかったりする。
つけてあったとしても、なぜか画面の前側で起きている事象の音を
劇場の前後左右に振っている。もはや空間的な意味がわからない。
迫力重視でそういう擬似的な演出しているに過ぎない。

こういうリアリティ装った嘘がどうも苦手だ。
だったら、2chステレオの家ヘッドフォン視聴でいいや
別に後ろから歩いて来なくていいし画面方向から
鳴ってくるだけでいい、となる。

そして同じ嘘なら、今回のような印象派な
イマジネートされた音響のほうが
いろいろ感じるものがあった。

 
 
─ 3DCGの使い方・演出がよく制動されてて好みだった
カメラマップは主観カットであるべきという持論があるけど
それに沿うように、うまく抑制されて効果的な使い方されてた。
2.5D表現は、3D背景の中、3Dカメラの近くにキャラ配置すると
カメラマップ3D背景と2次元キャラが分離して違和感となる。

それは現実だと、カメラに近いものほどレンズによるパースが出るからで
2次元キャラのパースを現実並に表現することは
ロトスコープアニメーション以外無理なので、違和感になる。
カメラから離れてキャラを置けばパースが出ないので、違和感を感じづらい。

それが、ほぼカメラマップを使うカットでは、
キャラを遠くに置きパースが出ないよう平行的・平面的に撮る
または主観カットとしてキャラを映さず、奥へ奥へ進む
画面効果を上げるためだけに使われていた。

スタジオ4℃が先駆的だったカメラマップ技術。
当初はそういう制動された使い方に限っていたが、
ここ10年は氾濫的になんでも2.5Dだ3Dだといって違和感感じるけど
回り込みカメラで迫力でればいいだろ的な雑な使い方で、辟易していた。
理想の使い方だったと思う。

 
 
─ 時代をまたぐときの背中と“列車”
少年期の二郎が背中をカメラ側に見せて部屋を
奥へ行くカットから、青年期の列車の中へのカット繋ぎ。
背中カットからの場面ジャンプは、もう一度あった気がする。
この背中を使った演出は、自分が妄想の中でやったら
うまくいく演出だろうなぁと思いつづけていたものだったので、
やっぱり成立するんだと思った。人の背中は、見てる側に思慮の時間を作る。

 
 
─ 普通のプロの声の役者は、皮、着ぐるみをうまく
着て操れるのが声優なんだというのを再認識した。

声優は、その“作品の役”になりきることが求められる。
けど、作品によっては、それが求められないほうが
より説得力を持つ場合があることを「風立ちぬ」で感じた。

 
発表時に、ドワッと騒ぎになったように
主演の声優はエヴァ等の庵野秀明監督。

上映前に、汗まみれの公録があり、
鈴木PとTokyoFMのパーソナリティーのトークが繰り広げられた。
(※8/11の23:00 TokyoFM放送予定)
そこで、鈴木Pが次のような感じに触れていた。
 
「役者は(声で)そのときのキャラクターの意図を伝えようとしてしまう。
 庵野は何考えてるか分からない話し方をするから採用した」
(※だいたい内容はこんな感じ)

そして、実際に映画をみるとそれがよく分かる。
これは役者が上手くやってしまっては、ハマりすぎて
“作品・画面の中のキャラクター” になってしまう。

けど、庵野監督が声をやったことで
画面から何かはみ出る、生々しいものがある。
訓練された役者が捨てる必要があった、リアルな、
いい意味での泥臭い感じが作品・画面の中からはみ出す、
生きた存在感を醸しだしていた。

 
常々、映画等の役者とか見てて思うのは
演技として皮をかぶったキャラクターとしての存在ではなく
その人自身そのものの存在をさらけ出すのを、見たいと思うことがある。

演じてるものの先に、作り上げられたキャラクターの属性ではない
役者そのもの自身を、ほんのチョットでもいいから
はみ出させたのを見せて欲しいと思うことがある。

嘘で包んだものじゃなくて、
「春日くんのグッチョグチョでドロドロしたものが見たいの!」って感じだ。
惡の華の仲村さんだ。

これは着ぐるみでいえば、ふなっしーとかまさに
チープな着ぐるみ部分がいまにも破けて、中身が
はみ出んばかりのパワーで着ぐるみを操ってる。
中の人を想像したいと思わせるだけの、はみ出ようとするものがある。
だから面白いし、ここまで人気になったんだと思う。

・・・って、何でふなっしーの感想になってるの。
最近、初めて動くふなっしー見たせいだ。

 
話を戻す。
映像芸術の映画もそう。
しかもアニメーションとなると、
基本、嘘っぱちの絵で構成される作品だ。
そこにジブリキャラの造形にピッタリあった声を当ててしまうと、
嘘の絵に、さらに嘘のキャラクターの声が
塗り重ねられていくだけにしかならない。

普通のアニメ作品は、それで十二分かもしれない。
たとえば、ラピュタは創作であって現実じゃない。
だから声優さんの演技が至極はまっていて
イマジネートされたファンタジー作品として面白かった。

けど「風立ちぬ」は、創作といっても
現実の歴史を足場にした作品だ。
絵の嘘に、耳馴染みの良いキャラクターボイスを
合わせて完結しては、創作ファンタジーとして
見られて終わっていたかもしれない。

 
そこを、誰かになるのが得意な役者ではなく
庵野監督がやることで、嘘の絵で作られる中に
1つ素朴な生っぽい現実があるのを感じた。
その真実味を帯びた何かが、これがただのファンタジーや
作り事だけではないことを終始伝えようとしていた。

堀越二郎・堀辰雄という現実に存在した人間を、
ただ、創作キャラクター化して据えただけではなく
庵野監督の声が乗ることで、いい意味でバタ臭く、泥臭い感じが
作品・画面の向こう側に人間の存在感を作り上げていた。
「風立ちぬ」の内容を考えると、これ以上の形はなかったと思う。

 
以上、これは映画を見て一番強く感じたこと。
そして、この存在感の息吹は、最初の段で触れた
“宮崎監督のロック”の礎となって、映画全編をおわりまで支えていた ─

 
 

※他、近年ジブリ作品のアリエッティの感想などはこちら




3月 27

ガンダムUC ep6をPSN配信で見た。
素晴らしかった。Aimerの歌も良すぎた。

かつては理想を追い求めていながらも堕ちた者の意志。
それでも、抗いたいという者の意志。
それら意志の運び手たちの物語。

かなり普遍的な人の社会の哲学テーマを背負った作品になってる。
生きてるかぎり、誰しもが関係あることを語っている。
変態的な仮面つけてるキャラがいるからと侮ってはいけない。

 
ここ5年内のアニメではベストと言い切れる作品。
00年代以降の10年といっても過言じゃないかもしれない。
episode1~6と見てきて、その中でも6はベストに近い。
最終話は来年同じ頃のepisode7で完結。

ガンダム(主に平成)という固定観念やら
食わず嫌いの先入観を抜いて見たら、ここ数年停滞してた
アニメーションの中で得るものがだいぶあると思う。

UCの前には新劇エヴァすらただの
残念リヴァイバルCG映画にしか見えなくなる。
それだけの手描きの力を感じられる。(もちろんCGも使ってるけど)

いまの時代、再利用可能なCGメインではなく手描きメインで
やってること自体、次の業界の世代へ意志を伝達しようと
してるようにも自分には見える。
プロジェクトと作品のメッセージがリンクしてる感じも熱い。




11月 01

http://www.evangelion.co.jp/

ヱヴァQ 11月17日公開

ヱヴァQ 11月17日公開

 
破でもちょくちょく象徴的に出てきたS-DAT。
上記、Qのティーザー絵でも描かれている。
その曲番号は、破までで27曲目となっている。
度々、このS-DATのアップカットと曲番号表示が映るため
いろいろなサイトで、その意味付けの考察がなされている。

 
ここで面白いネタがある。
散逸構造論でノーベル化学賞を受賞した
イリヤ・プリゴジンの一般向け科学解説書『混沌からの秩序』より、
この世界が不確実性に満ちていて、決定論的には振る舞えないことを
象徴的に引用・説明している最終段から。
 

混沌からの秩序

混沌からの秩序

最終段:タルムードからの引用部分

最終段:タルムードからの引用部分

 
ユダヤの教典タルムードによれば、
現在の世界の前に26回世界は創世に失敗し、
27回目で成功した
とされる。
※そして同時に、その27回目が失敗に
 終わる可能性も示唆されている。

 
エヴァはユダヤ・キリスト教神話設定で構成された作品であること、さらにS-DATがやたらと出てきてキーアイテムっぽく扱われていること、そして破で27曲目まで進んでいること・・・これらを考えると、S-DATは世界の更新番号を象徴しているのかもしれない。つまり、旧劇26話までは失敗の世界であり、破以降では27回目の世界創世を目指すことを示唆しているという解釈。

また、奇しくも10数年前の旧TV・劇は合わせて26話という構成(TV全26話/劇場やり直し25・26話)になっている。破以降の話は27話として捉えて問題ないとも言える。つまり、2重に27という数字が意味をもってくる状況になっている。

旧劇は個人的には、メッセージ性含めまとまっていたと思っているけど、ハッピーエンドといえるかといえば疑問符が残る。まさか、この”27″というタルムードの世界創世話を裏設定に持っていた上で、10年後に27話=27回目の創世ストーリーをやる、と庵野監督は考えて旧劇までを作ってきていたのか不明だけど、いまエヴァをやり直す(REDO)こじつけとしては、このタルムードの話は実にうまくハマるね!

 
 
 
■さらに28に進んだ場合

28という数字は、ヘブライ語においてシャラール〔命〕という語であるとともに、“アダム・カドモンの両手” と合致される。カバラではアダム・カドモンは原初の人・神にもっとも近い人間とされている。
 

“ヘブライ人は月の《獣帯》を、普遍的人間アダム・カドモンの両手と関連付けるが、それは28が<シャラール>(命)という語の数であり、両手の指の関節の数だからである。右手は祝福を与える手で、満ちてくる月と関連し、左手は呪いをかける手で、月が欠けて行く14日間と関連する”

(出典:世界シンボル大事典/月の項)

世界シンボル大事典

世界シンボル大事典

 
エヴァでは、月も重要なシンボルになっている。EDだった”Fly me to the Moon”もある。その月が完成される日が約28日周期(実際は29.53日)であり、また28はユダヤ・カバラ解釈において命(生命)・アダム・カドモンの両手というエヴァに親和性の高い意味も持ち合わせている。

これを踏まえると、破でS-DATは27曲目へと進み世界更新の予兆を、そして、Qもしくは新劇最終話で28曲目になり新たに何か生まれる?完成する?ことを示唆する・・・という風に考えてみたくもなるね!そして、こんな推察は些細なことで・・・
 
 
とにかくラストはアスカENDきぼんぬ(死語)!!!

“ヱ”ヴァでアが入ってるし!!

「ア」スカ、「エ」ンドしかもう考えられない!!!

ハーーーーーーッ!!!!!

 
 
おしまい

 

しかしこの新キャラ、すごいCVみゆきち感

しかしこの新キャラ、すごいCVみゆきち感

 
 
 

 
・・・上記は公開前に書いた記事なので、声優言及も間違ってます。

実際のとこ、SDAT番号は、他で言及されてるように
話数の区切りという解釈が妥当なんだろうけども。
ただ、上記のような見方も面白いよね、って話でした。

BD/DVD発売記念に、2013.04.26にこの段を追記。




9月 30

世紀末オカルト学院の2Qだった。

ただ最終話、文明同士のコンタクト、未来の文明が鍵だったとすると矛盾があるな。
過去に来なければ未来が壊れないなら、もともと最初に過去に来た理由は何だったのか。
未来が壊れてなきゃ過去にいく理由がない、未来が壊れるには過去に行く必要がある・・・
・・・卵が先か鶏が先かみたいな話だけど。
ま、ここらへん含めてオカルトのマガイモノ感を味わうところなんだろう。
好きだと何でもよく解釈する(笑)

やっぱり人物の心の描写というか動きが真に迫ってナンボだね。
リアルな要素なんて目に見えないものだろう、ほとんど。
図像も絵も実写だろうが何だろうが、ただの視覚記号なんだから。
それを裏テーマとして持ついいアニメだった。
あまり濃さはなかったけど、ビバップ以来のテーマだったな。

 
そして、けいおん2期。
1期に比べて終わりのインパクト薄かったけど
夜中のサザエさんとしてはまぁまぁ良かったな。
でも、映画化は何か力み過ぎだな。
サザエさんを映画館であまり見たいと思わない(笑

他は、みつどもえとオオカミさんが結構よかった。
BASARAと黒執事は1期ほどじゃなかったな。

 
 
さて、3Qアニメは何があるかなぁ・・・