7月 06

四畳半は全11話一応ほぼリアルタイムで見たな。
トータルでは楽しめました。

んが、最後の最後で1つだけ大きく残念だったのが
「私」の心変わりで、小津の顔が変わってしまった点。
最終話だけでなく途中話にも顔が変わってた小津はいたけども。

無限の四畳半の中の各々の「私」は四畳半迷路にさまよう
「私」よりはマシだったけど、好機はつかんでいない。
結果、無限の可能性(逃げ道)を探したあまり迷路をさまようことに。
そして堂々巡りのあげく最後に目の前にぶら下がる好機を掴んだ。
脱出後、明石さんではなくまず小津を選んだ。
※コインランドリーのパンツともちグマ入れ替え犯人?過去話見直します…

 
 
ここまではかなりよかった。
けど、何で小津の顔を変えちゃったかなぁ…。
原作がそういう表現してたら仕方ないんだけども。

「私」の心変わりで小津の顔が変わってしまったということは
どこまでも「私」の見た世界でしかなくなり、あれだけ求めたかつての
悪友小津という”他者”が「私」を写す鏡、道具でしかなかったことになっちゃう。
小津というキャラクターがあそこで死んでしまった。
他者の存在がひどくないがしろにされてしまった感じがした。

せっかくの小津親友ENDだったのに色褪せてしまった。
親友認識した小津すら「私」の救済・補完計画のための、
作品のメッセージのための道具でしかないように見えた。
他者を認識し、自覚し、己を知るがテーマだったのに。
「私」にとって小津を”損得計算しなおしたら”、充実したキャンパスライフ送らせて
もらってた唯一の親友だったらしいので顔が正しく普通に見えてきました、に見える。
大分勝手だ。自分に都合がよくなったら綺麗に、普通に見えるってのも1つの偏見だ。

他者ってもっと確固たる存在としてあると思うんだけどなぁ。
小津はその役目を担えたはずなのに。親友ENDであるなら
「私」と存在感が対等であって欲しかった。

 
それとも一回転して、人は偏見でしか物を見れないと言いたかったんだろうか?
人は他人を自分のフィルター通してしか絶対的に認識できない。
良い意味でも悪い意味でも。その人自身じゃないわけで。
何考えてるか100%相手のことが分かるわけはない。

だから、想像し(つまり都合のいいように)解釈するほかない・・・究極そうなんだろうけど
仮に、そのメッセージを携えての小津親友ENDってのも意味わからないしなぁ。
親友すら自分に都合のいいものでしかないというメッセージになってしまう。

 
 
ただ、これもそう複雑に考えず、単純に、肯定的に捉えれば、
最後病室で「私」の顔が小津となり立場が入れ替わったように、
無限ではない「目の前にぶら下がる”たった1つの好機”」をつかめば
「私」はあの恋愛馬鹿の小津にもなれるという表現だったわけだ。
簡単にいえば、”変われる”というメッセージだった。
そこで「私」が小津顔になったことを強調するためにも小津は別顔が必要だった。

でも、その狙いは分かるんだけど
そこで得られた効果以上に、ひどく自分には逆効果に見えた。
アニメーションは何でもありだけど、それをやっちゃあお終いよレベルだった。
小津は、あの宇宙人顔・妖怪顔のままで隠し続けてきた
自身の恋愛ネタを暴露されて困ってこそ本質が見えた気がする。
人の違う一面が見えても、外見は変わらないほうが印象としてリアルだ。
そのほうが相手の心をちゃんと見れた気がする。

もし「私」が小津にもなれる可能性を表現するなら
最後、病室で顔を突き合わせたときだけ、両者の顔入れ
替えるだけでも表現できた気がするのに。
え?あれ?っと見間違えるかくらいのコマ数で。

ほんと惜しかったなぁ。

そもそも、小津とのファーストコンタクトの時点で、
(1話より前にも無限のコンタクトがあったのかもしれないが…)
小津に対して何の情報もなかった時点であの宇宙人顔だったんだから
あのクリーン顔がやっぱり最後に来るのはどうみてもおかしい。

※周りの外聞・噂ですでに小津への色眼鏡をつけてからの
ファーストコンタクトだったからかも?




6月 30

金曜ロードショー 7月は4週連続スタジオジブリの傑作を放送!

7/2『紅の豚』
7/9『耳をすませば』
7/16『ハウルの動く城』
7/23『となりのトトロ』

アリエッティ前ってことかな。
アリエッティ一応観に行こうかな。
パヤオさんはまるで絡んでないようだけども。

アリエッティでは、ケルト音楽をメインテーマに据えてるようだけど
そっち系を扱うものって渋くなりすぎたり、そっち色に染まりすぎて
あまり表現の幅が出ないイメージがあるから、それ壊せるかどうかを見に。
音楽に内容が負けちゃってないかを見に。雰囲気だけになってないかを見に。
テーマ曲はラジオで流れてたのをすでに聴いた。




6月 04

面白すぎる(笑)

純文学の匂いたっぷりな7話でした。
このひん曲がった異常な愛情っぷりは。

深く読めば、人形に託した自己愛すら成立できないわけだ。
人形は自分の都合のいい反映だし、それすら攻略できない。
それもプライドという名の自己愛が故に。
これまでの葛藤が人形を媒介として外に出てきたみたいな話だな。

 
しかし、全何話だこれ。
6月いっぱいやるとして残り3話で全10話だけど。
中途半端だ。でも、来週で終わるとも思えないし。

もしかしてBD/DVDは2,3,2,3話で全4巻かなぁ。
となると、3話分収録巻はちょっとお高くなるのか。
…うーん。でも買う。




6月 02

今回は真面目・・・いや前のも真面目だよ!!
というか、簡単にひっかかった部分(良い意味で)に触れてみる。
真面目というのは設定に対して真面目。
前のは、メッセージ性に対して真面目だっただけだからね!

ゲンドウと冬月の会話にて
ゲンドウが、「カオス(混沌)は人の印象でしかない
すべては秩序だった中に存在している」みたいなこという。
冬月は、「混沌なのは人の存在(意思?)か」みたいに同意する。

まぁ、よくよく考えるとそうだ。
自然が不合理で予測の付かないカオスに見えるのは
人間にとっての視点であって、至って秩序あるサイクル
を繰り返してるだけかもしれない。
たまに、大きな台風や地震や噴火などの現象で人が
不条理・不合理になくなったりするが、自然にしてみたら
至って合理的な動きの上の結果だろうし。人から見たらカオス。
凶暴な牙を向く自然にみえるわけだ。

カンディードでもここらへんにちょっと触れてたりする。
西欧は文化的に自然の猛威は神の罰と考える癖があるから
よけいにややこしいんだけど。まぁ日本もなくはないが
向こうみたいに原罪の洗脳はないから比べられるものでもない。

メガテンユーザーなら、この視点はちょっと
ハッと気付かされるところかもしれない。
真3の氷川は自然に順ぜよ、人はこの世界にとって
うるさすぎるみたいなスタンスだったけど。
だからコトワリは「静寂」。目標は人の消滅(笑)

ちなみに氷川神社とかあるけど、あそこで自然神を祀っているから
たぶん氷川だと思われる。よくスサノオが御祭神にいるけど
スサノオも自然神的見方をされる。もっとも荒ぶる自然の象徴だけど。
静寂なんて到底無いような。・・・あ、話がずれた。

人とその他生命の立ち位置の平等化。

通常アニメだとモブシーンは場所の説明のために
1カットもあれば済むんだけど、やたらそれが入る。
3カットとか続けて入る。そこで見えるのは、
キャラクター以外の生活もあることを強く見せるためな気がする。
キャラクターだけ強く抽出していた旧作とは異なる演出。

そして、ここに乗っかってくるのが前触れた
協調と融和の世界の表現の具体的な演出例じゃないかということ。
誰一人として特別な人間なんていない、みな同じ的な視点で描かれる。

ついで、マリが、カモメの群れだか鳥をじっと眺めてたり
海洋の生き物の死の匂いの下りだったりと、生命の広がりを
意識させるところが要所要所に入ってくる。

やっぱり第九の世界。

もろもろを見つめていくとベートーヴェンの
第九交響楽歓喜の歌のシラーの詩の世界に近くなっていく。
上記の流れというより、特にラストへの流れが。

http://www.geocities.co.jp/MusicHall/1179/kasi1.html

歓喜よ、美しい神々の花火よ、天上の楽園からの乙女よ!
我らは(炎を飲むがごとき)情熱にあふれ、あなたの聖なる場所に足を踏み入れる。
あなたの魔力は時流が厳しく切り離したものをも再び結び合わせ、
あなたの柔らかい翼が留まる所で、全ての人は兄弟となる。
(第九の一番有名なリフレイン部分。
繰り返し部分なので今回の破のラストもこうなってる?)

大いなることに成功し、誰かの友となり、
優しき伴侶を得た人は歓喜の声に唱和せよ!
(破のシンジ?)

そうだ!この地上でただ一つ、魂しか”自分のもの”と呼ぶことが出来ない者でも!
(旧劇のシンジ?)

そして、出来なかった者は、この集いから泣きながら立ち去れ!
(We can not advanceな僕ら(笑)?)

万物は自然の乳房から歓喜を飲み、
全ての善人も全ての悪人もバラの小道をたどる
自然は我々に接吻と、ワインと、死の試練を受けた友を与えた。
虫けらであろうとも快楽が与えられ、天使ケルビムが神の前に立つ。
(Qの世界?死の試練を受けた友=アスカ?恋人目指すのやめて友になる?)
以降の歌詞は神学的になってくのでまた別かな。
と、かなり都合のいい解釈でした。

あとは、シンジのDATプレイヤーの番号が25から27へと
上がっていってるのが、ちょくちょく出てくるのは
いろいろ解釈されてるけど、やっぱり中東の神学・形而上学が
世界観ベースってことで、次の28を解釈すると28には、
ユダヤ・ヘブライ文化の数秘学の解釈において意味がある。
映画πで説明されていたあれ。父と母の意味の数字を足すと
子を意味する数字になるというあれ。

そしてその28は、アダム・カドモンの両手という象徴と
シャラール(命)という語の数字表現になる。

これは月の公転周期がほぼ28日であり、ヘブライ文化において
その月や星の通り道である、”獣”帯(Zodiac)をアダム・カドモンの
両手の象徴としてみているかららしい。アダム・カドモンは原初の人。
アダムの母体。生命の樹の意味もあるとかないとか。

で、その原初の人=最初の人としての生命=28で命につながると思われる。
なぜ両手かというと、片手の指関節の数が14でそれを両手分で28。
右手は祝福を与える手で、月の満月への14日間を。
左手は呪いをかける手で、月の新月への14日間を象徴してるらしい。

まさにカヲルが月から降りてきてロンギヌスの槍突き刺す破のラスト。
時が満ち、シンジと綾波の合体(キャッ!)から新しい「生命」が生まれる
という流れの暗号だったと思われる。
ラスト救い出したときにこれ見よがしに違和感ありありでDAT持ってたしね。

あ、ちなみにこの28の解釈は
「世界シンボル大事典」の月の項参照。
俺の妄想・妄言じゃないですからね、これは。

さあ、これらを信じるかどうかはあなた次第! m9(`・ω・´)
………って、ぜんぜんちょい足しじゃないな。
ヲタ度100%!オカルト100%!
昨今のちょい足しという名の食い物の大幅改変に物申す!




5月 17

読み終わった。
かなり面白く読めた。

訳者あとがきで「哲学コント」と表してるようにコントだった。
この登場人物のポップさは、テリー・ギリアムの映画見てるみたいだ。
そこに絶望先生的に、不幸を客観視する皮肉っぷりが足された感じ。
岩波文庫の植田祐次訳オススメ。

 
前半は、哲学の師としてパングロス博士という
最善説=オプティミスムを説く人物が出てきて
主人公カンディードもそれを信奉している。
しかし、最愛の人と引き裂かれ、相次ぐ文字通り血みどろの
不幸にみまわれることで、この世の出来事は必然、
すべて最善に配列されているという師の説に、
中盤では次第に疑いを持ち出していく。
師も、前半半ばにはあらぬ罪を着せられ絞首刑で死んじゃった。
最善の配列の結果死んでしまった。

師の死を含め、様々な不幸の後,後半の頭あたりから
今度は、リアリスムというかペシミスム(悲観論)を代表する
マルチンという学者がカンディードの哲学相手として旅に同行する。
カンディードは次第にペシミスムに関心を持ち(最善説ほどまでには傾倒しない)
さらに、奇跡的に実は生きていた師と途中で再会して
オプティミスム的な意見も同時に語られてバランスをとっていく。

そして、波乱万丈だった運命の人ととの出会いの旅も、
かつて美しかった人が見た目ひどい醜女へと変わっていた
現実で締めくくられ、しかし責任から結婚して、
最後は質素な農作者の労働的生活に幸福を見出して終わり。
ペシミストのマルチンも、目の前の生活のための労働を肯定する。
オプティミストのパングロス博士は、人生は連綿と連なっている
一連の幸不幸があっていまのカンディードがいるんだ、と説く。
カンディードは、ご説ごもっともと受けつつも「しかし、
自分たちの庭を耕さなくてはなりません」と締めくって終わり。

 
 
何か第一印象はちょっと自分のイメージと違っていた。
自分が思っていた最善説というのは、現実にいま表れてる
身の回りの人生から、世界レベルの様々な善悪入り混じる事象は、
それ以上なかった過去の繋がりの結果としての今であり、
それ以外の世界はなかった、ifで語る今に価値はないという
意味において”最善”という言葉を扱うものと思っていた。

最も善いという意味ではなく、いまの世界や自分の選択してきた
現在を肯定する、それを語る作品かなーと思って読んでいた。
まぁ、言ってみればパングロス博士に半分近い意見だった。
半分というのは、神うんぬんや運命うんぬんという
形而上的視点はないという意味で。

けど、カンディードを分身としている?作者ヴォルテールとしては
最善説なんて信じられない、という目的でこれを著してたらしい。
訳者あとがきによれば。

 
 
でも自分が思うに、中盤でカンディードは最善説を放棄し始めたけど
後半の途中、運命の人との出会いの希望が叶いそうな場面では
カンディードはパングロス博士の最善説をまた支持していたりした。
つまり、運命が好転したら最善説に、悪転したらマルチンのペシミスムに
影響されたりと、あっちゃこっちゃした末に、悩みあげき、
最期の自分たちの畑を耕さなければならないというつつましい労働に着地した。
完全に、最善説を放棄した感じはなかった。

 
これは曲解に近いかもしれないけど、どんな状況であれ
あらゆる場面で人は目の前の対処に追われることに取組むしかない、
不合理に対してもそこに取組むしか無い、という全体の流れを
通して最善説を説いているのかもしれない。

運命が好転すれば最善に世界は配列されてるといい、悪転すればペシミスムへ。
そうやって右往左往しながらも、目の前のことに対処していかなきゃいけない。
最期の労働は、その一番分かりやすい、その時カンディードに必要な
ものとして、また一般的な身近な例としての分かりやすい例というか。
そうなると自分の考えと近くなる。
自分の都合のいいように寄せてどうする、って感じだけど(笑)

カンディードの考え方だけが作者の言いたいことだとすれば
何も最期の最期まで、憎きオプティミスムをパングロス博士に
長々と再度語らせる必要もないし。庭を耕さねば、の対比
だったかもしれないが、本当に最善説を敵視していたような
気配はあまり感じなかった。実は、庭を耕さなければ、は師への
否定ではなく、師の意を受けた上で、その最善説のためにも、
自分たちの未来を繋げるために庭を耕さなければならない、
だったのかもしれない。

 
結局、カンディードそれぞれの状況での思考の変化や選択、
パングロスやマルチン含めた全体として、作者の持つ最善説
オプティミスムな世界を語っていたともとれる気がする。
世界はもともと不合理・不条理なんだから、
それ以外には方法がないというか。

もし、運命や不条理を憎むんだったらもっと熱情的な
ニーチェ的な敵憎しの憎悪を書き連ねることもできたはずだ。
けど、そういう熱情は特に感じなかったな。

 
 
よくよく考えてみれば、いま見てる
四畳半神話大系も似たような主題だな。
ifの世界を繰り返して、最善の世界を探っている。

まだ、ラストどうなるのかわからないけど。
好機を掴むのかどうか。好機掴んだら自分的には
実にナンセンスな話になってしまうけど。
ifが収束したのちに、そこから好機を掴むなら未来の話だから別だけど。

過去のifを肯定したら、いまの自分って何?ということになる。
ならない人は過去に一切の後悔がない人だろう。
または、タイムトラベル可能にするドラえもんを押し入れに飼ってる人だろう。
というか、それ以前に、あそこまで明石さんのATフィールド
中和できてる主人公なら普通に結ばれるだろと思わないでもない。

小津の態度が一番、対不合理に対するいい態度だな。
自身が不合理の権化になってるし。城ヶ崎にも樋口師匠
どちらにも属し、どちらにも実は属さない。まさにトリックスターだ。
運命等の縛りから切り離されている。自由の体現みたいなものだな。

四畳半神話大系という題だけど、実は一番小津が神に近い。
日本神話のトリックスターはスサノオ、北欧ならロキといるけど
どちらもやはり敵味方無差別にいたずらした神だ。
小津が実は神だったりして(笑)