7月 11

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

7/20一般公開「風立ちぬ」の試写状

 
一足先に「風立ちぬ」観てきました。
一言。素晴らしかった。

 
鈴木敏夫Pがパーソナリティーをやっている
ジブリ汗まみれのラジオの招待で80組160名応募に当選。
5000件も応募があったそうだ。よく当たったな。
ご招待ありがとうございましたm(_ _)m

以下、感想・分析を個人的に。ネタバレ含みます。

 
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※まだ自分の中で引っかかったキーワードのみ羅列。
 一部しか、文章になってません。

 
─ ロックだった
もう全部一言でひっくるめるとロック。
宮崎監督のロックを見せてもらえました。

広義のロック、そして、何よりも純粋なロック。
ロックといったら内田裕也とかYAZAWAとか、
そういうビジュアル的な意味のロックじゃない。
本当に根源的な意味での、装飾を取り払ったロック。
自然権ともいえる人の中にある普遍的なロックだった。

最近、pillows掘り起こしてるけど
fools on the planetの風吹く感じと
同じものが映画に乗っていた。
読後感じゃないけど、観後に感じるのは
ひたすら “風” が体を吹き抜けていく感じだった。
自分の中で、本読むにしても映画みるにしても
一番好みの体験の形。

 
 
─ 試写応募時に送った汗まみれラジオの感想

“ポニョ前後から、かれこれ5年?でしょうか。
リスナーをしてきて、この間にアリエッティにコクリコがあり、ジブリがそのときの時代をどう捉え、何を考え、何作るのか、また作品がない期間は鈴木Pの話と、毎週、聞く度に紹介作品の内容や物を考えるいい機会になってました。

今回の「風立ちぬ」では、ラジオで触れられていた宮崎監督の考え方が、すべて凝縮されているような作品になっていると感じています。
揺れる時代の狭間での人のあり方ということで、堀田善衛・堀辰雄さん以外に、鴨長明の「方丈記」や司馬さんもそこにあるかもしれません。
作品を見るのがホント楽しみです。”

 
 
─ “風が立つ(吹く?)、生きようとすることを試みなければ”

 
 
─ 本庄(本上?)のある一場面での口癖 “矛盾だな”
宮崎監督は、本庄として作品に自身を介入させていた気がする。
裏付けるような、貧乏揺すりの癖も。

宮崎監督は、絶望の位置からのぞむ希望を作品にしていると思っている。
それは一度絶望に落ちなきゃ生まれない強い欲求で、現実、
リアリズムが突きつける絶望の論理に強く惹きつけられながらも抵抗する、
強い自己矛盾・自己葛藤が、宮崎監督に希望の作品を作らせているんだと思っている。

たしか自身でも矛盾の人、ラジオでも鈴木Pに矛盾の人
あちこちで“矛盾”というキーワードが宮崎監督の
属性として語られていた気がする(うろおぼえ)

 
 
─ レイアウトが宮崎監督の集大成な気がした
素晴らしすぎて、そこで泣いた。やられっぱなしだった。

紅の豚は、何だか独り言の多いキザな豚さんだな、と
あまり世間の皆様ほど好きじゃないんだけど唯一好きだったのは
空、雲の上へ登っていく仲間の飛行機たちのカットだった。
それを今回、自らオマージュしてるカットがいくつかあった。

 
 
─ 好きなイタリアの音楽、ドイツの硬い音楽いろいろあった。
一種の宮崎監督の美意識と言うか
趣味・趣向が音楽の切り替えで表現されてた。

 
 
─ ボイスSE
声でSEを当てているというのは前情報として知っていた。
それがあまりに効果的でゾクゾクした。
関東大震災のときのSEで、低音ボイスを少し加工したようなボーーーという
サイレンみたいな、印象派な使い方したSEのおどろおどろしさは
味わったことない寒気すら感じるほどの音響効果を生んでいた。

これは映画館でみて良かったとおもった点。
音響効果的な意味で、映画館でみてよかったと思ったのは久しぶり。
自分あまり映画館の音が得意じゃない。

たとえば洋画のオフィスシーンなどで、後ろから誰かが歩いてきて
カメラに映りそのまま前へ進むみたいな足音のとき、
スピーカーのある高い位置で、劇場の観客席の後ろから
スクリーンへ向かって足音が前へ行くようなあて方になる。

これは大嘘だ。
リアリティ追求してるつもりで、まるっきり大嘘の擬似的な
音響演出でしかない。画面をはみ出させたつもりだけど、他の場面では
カメラの背後にある映らない側の音響なんてつけてなかったりする。
つけてあったとしても、なぜか画面の前側で起きている事象の音を
劇場の前後左右に振っている。もはや空間的な意味がわからない。
迫力重視でそういう擬似的な演出しているに過ぎない。

こういうリアリティ装った嘘がどうも苦手だ。
だったら、2chステレオの家ヘッドフォン視聴でいいや
別に後ろから歩いて来なくていいし画面方向から
鳴ってくるだけでいい、となる。

そして同じ嘘なら、今回のような印象派な
イマジネートされた音響のほうが
いろいろ感じるものがあった。

 
 
─ 3DCGの使い方・演出がよく制動されてて好みだった
カメラマップは主観カットであるべきという持論があるけど
それに沿うように、うまく抑制されて効果的な使い方されてた。
2.5D表現は、3D背景の中、3Dカメラの近くにキャラ配置すると
カメラマップ3D背景と2次元キャラが分離して違和感となる。

それは現実だと、カメラに近いものほどレンズによるパースが出るからで
2次元キャラのパースを現実並に表現することは
ロトスコープアニメーション以外無理なので、違和感になる。
カメラから離れてキャラを置けばパースが出ないので、違和感を感じづらい。

それが、ほぼカメラマップを使うカットでは、
キャラを遠くに置きパースが出ないよう平行的・平面的に撮る
または主観カットとしてキャラを映さず、奥へ奥へ進む
画面効果を上げるためだけに使われていた。

スタジオ4℃が先駆的だったカメラマップ技術。
当初はそういう制動された使い方に限っていたが、
ここ10年は氾濫的になんでも2.5Dだ3Dだといって違和感感じるけど
回り込みカメラで迫力でればいいだろ的な雑な使い方で、辟易していた。
理想の使い方だったと思う。

 
 
─ 時代をまたぐときの背中と“列車”
少年期の二郎が背中をカメラ側に見せて部屋を
奥へ行くカットから、青年期の列車の中へのカット繋ぎ。
背中カットからの場面ジャンプは、もう一度あった気がする。
この背中を使った演出は、自分が妄想の中でやったら
うまくいく演出だろうなぁと思いつづけていたものだったので、
やっぱり成立するんだと思った。人の背中は、見てる側に思慮の時間を作る。

 
 
─ 普通のプロの声の役者は、皮、着ぐるみをうまく
着て操れるのが声優なんだというのを再認識した。

声優は、その“作品の役”になりきることが求められる。
けど、作品によっては、それが求められないほうが
より説得力を持つ場合があることを「風立ちぬ」で感じた。

 
発表時に、ドワッと騒ぎになったように
主演の声優はエヴァ等の庵野秀明監督。

上映前に、汗まみれの公録があり、
鈴木PとTokyoFMのパーソナリティーのトークが繰り広げられた。
(※8/11の23:00 TokyoFM放送予定)
そこで、鈴木Pが次のような感じに触れていた。
 
「役者は(声で)そのときのキャラクターの意図を伝えようとしてしまう。
 庵野は何考えてるか分からない話し方をするから採用した」
(※だいたい内容はこんな感じ)

そして、実際に映画をみるとそれがよく分かる。
これは役者が上手くやってしまっては、ハマりすぎて
“作品・画面の中のキャラクター” になってしまう。

けど、庵野監督が声をやったことで
画面から何かはみ出る、生々しいものがある。
訓練された役者が捨てる必要があった、リアルな、
いい意味での泥臭い感じが作品・画面の中からはみ出す、
生きた存在感を醸しだしていた。

 
常々、映画等の役者とか見てて思うのは
演技として皮をかぶったキャラクターとしての存在ではなく
その人自身そのものの存在をさらけ出すのを、見たいと思うことがある。

演じてるものの先に、作り上げられたキャラクターの属性ではない
役者そのもの自身を、ほんのチョットでもいいから
はみ出させたのを見せて欲しいと思うことがある。

嘘で包んだものじゃなくて、
「春日くんのグッチョグチョでドロドロしたものが見たいの!」って感じだ。
惡の華の仲村さんだ。

これは着ぐるみでいえば、ふなっしーとかまさに
チープな着ぐるみ部分がいまにも破けて、中身が
はみ出んばかりのパワーで着ぐるみを操ってる。
中の人を想像したいと思わせるだけの、はみ出ようとするものがある。
だから面白いし、ここまで人気になったんだと思う。

・・・って、何でふなっしーの感想になってるの。
最近、初めて動くふなっしー見たせいだ。

 
話を戻す。
映像芸術の映画もそう。
しかもアニメーションとなると、
基本、嘘っぱちの絵で構成される作品だ。
そこにジブリキャラの造形にピッタリあった声を当ててしまうと、
嘘の絵に、さらに嘘のキャラクターの声が
塗り重ねられていくだけにしかならない。

普通のアニメ作品は、それで十二分かもしれない。
たとえば、ラピュタは創作であって現実じゃない。
だから声優さんの演技が至極はまっていて
イマジネートされたファンタジー作品として面白かった。

けど「風立ちぬ」は、創作といっても
現実の歴史を足場にした作品だ。
絵の嘘に、耳馴染みの良いキャラクターボイスを
合わせて完結しては、創作ファンタジーとして
見られて終わっていたかもしれない。

 
そこを、誰かになるのが得意な役者ではなく
庵野監督がやることで、嘘の絵で作られる中に
1つ素朴な生っぽい現実があるのを感じた。
その真実味を帯びた何かが、これがただのファンタジーや
作り事だけではないことを終始伝えようとしていた。

堀越二郎・堀辰雄という現実に存在した人間を、
ただ、創作キャラクター化して据えただけではなく
庵野監督の声が乗ることで、いい意味でバタ臭く、泥臭い感じが
作品・画面の向こう側に人間の存在感を作り上げていた。
「風立ちぬ」の内容を考えると、これ以上の形はなかったと思う。

 
以上、これは映画を見て一番強く感じたこと。
そして、この存在感の息吹は、最初の段で触れた
“宮崎監督のロック”の礎となって、映画全編をおわりまで支えていた ─

 
 

※他、近年ジブリ作品のアリエッティの感想などはこちら




8月 23

レイトショーで観てきた。
おやすみプンプンで始まり中学生日記で終わる映画です。
そして、簡単にひとことふたことだけ。

アニメーションという多分に嘘を料理するメディアで
こういうレベルのこと言っちゃいけないと思うな。
というか、こういう題材を安易に扱うのは逆に危ない。

いや。安易なんてトンデモナイ話で作り手は大マジで
作ってるのかもしれない。でも、だとしたら余計に危ない。
「所詮これはアニメである」という根底の嘘を
作り手がすっかり忘れているように感じた。危ナイヨ。

 
 
 
# 2010.08.24追記 ※ネタバレ含みます

昨日の伊集院ラジオさっき聴いてたらカラフル見たらしく
あまり面白くないという感想とともに(ちなみにアリエッティは「普通」)
まんま自分と同じように”中学生日記”に例えていたな(笑)
あそこまで緻密にリアルに動かすならドラマの中学生日記でいいじゃん、と。
全く自分もそのとおりの感想。

90年代末に語られたようなテーマを、今の時代に、
しかも嘘まみれなアニメでやってるから上で危ないと評した。
自殺はダメなんて、嘘まみれ設定(前の自殺へ辿った自分を忘れ、もう一度自分をやり直す)
のアニメで言ったら、いま絶望の淵に立ってる学生の背中を押すだけだよ。
「所詮アニメの話だろ・・・」って思われて。

大マジで救いたいのかもしれないけど作り手は。
アニメにそこまでの力はない。あったとしても方法論変えないと無理だ。
アニメにはその力があると作り手は思いっきり勘違いしてて
アニメが大嘘メディアの代名詞だってこと忘れてしまってる感じ。
最終的なメッセージ性ために、都合いい設定並べてそこに導くのが
アニメなのに、それ忘れてよくこんなこと言えたなって感じ。

アニメ見てられるなんて相当お気楽な精神状態だよ。
いま学生で学校で悩んで明日にも自殺考えてる人間が見たらどう見えるか。
分析視点で「これも”1つのアニメの考え方”かぁ…」なんて見方してる余裕はないはず。
作り手の労働は死ぬほど凄まじく、アニメもリアルなのかもしれないけど。
けど作り手の都合と客の都合はイコールじゃない。

 
 
原監督がどの程度の絶望を体験してきたのか自分は知らないけども。
カラフル見た感じ、たいして知らないんじゃないかな。
映画いまを生きるのニールの親父が頭に浮かんだよ。
絶望を理解してるつもりで理解していないこの映画の感触には。

おかげで久しぶりにいまを生きるのVHSを掘り起こしていまさっき見返したけど。
こっちのほうがよっぽどオススメだね絶望学生には。
もしかしたらニールのようになってしまうかもしれないけど、
その前にもう一度挑戦できる力は得られるはず。




7月 18

レイトショーで見てきた。
よかった。かなりよかった。
危うく泣くところだった。

 
映画に粘りがあった。作られてる絵にも、
父親との距離感や少年の吐く毒といったキャラクターの存在感にも。
そういった意味でリアル。リアルな人と人との距離というか。

映画終わったあとにも残るものがある。地続き感がある。
あの世界が現実にあるとか小さな生き物を大切にしようといった
陳腐で具体的な地続き感というのではなく、もっと根源的な、
“生けるものが持ち発する存在感”みたいなものに地続き感を感じる。

 
新人監督ってことで宮崎監督の影響というか
学んだものを消化しましたYO感が随所に出てるんだけど
その監督らしい作家性もちゃんと出てたように思う。

最初のバッタとの疾走シーンで何かすでに来るものがあった。
バッタは影の主役かな。メインのキャラクターたちが作りだしてる世界と
至って近い別の世界が背後にあるよ、ってことを不意の幾度かの登場で伝達していた。
たぶん、無意識的にこれも映画からはみ出る地続き感を作ってるように思う。

ストーリーというかキャラクター動機面では、途中までちょっと
斜め上展開するんだけど、それもちゃんと終わり辺りで回収される。
ケルト音楽も最初のほうだけ唐突だなと感じたけど段々気にならなくなる。
気にしてた音楽負けはぜんぜんなかったな。
絵の粘りがちゃんと全体支えていた。

 
近年見てきたアニメ映画では1番かな自分の中で。
最後、そう来るのが分かってるのに、かつてのジブリ作品の
舞台設定の引用と明らかに分かるのに、そういった理性の分析を凌駕した
先に実ってるものがあるのを観るのはいいね。いい映画でした。

 
 
 
 
以下、上の補完。
汗まみれ宛に感想送った転載。
ネタバレ含むので注意。
かいつまみ転載なので尻切れです。
 

“借りぐらしのアリエッティを公開初日に見てきました。新人の方が監督ということですが大変よかったです。アリエッティと父親との距離感、少年の吐く毒、不意に何度か登場した影の主役たるバッタ等に生命感を感じました。と書くと大変軽い感じですが、もっと重たい、生けるものが持ち発する”存在感”みたいなものを感じました。そこがファンタジーながらある意味リアルでした。このキャラクター同士の距離感が、現実との地続きにあるようにこの映画を感じました。

宮崎監督のこれまでの作品ではどちらかというと人間の業が物語の歯車となり、その衝突が前面でドラマティックに働き背後にあった生命感・目に見えない命の存在感みたいなものを感じるのが難しかったんですが、アリエッティではそれがダイレクトに描かれているような気がしました。
それは、絶望に暮れ死にゆく過程にあった少年と、同じ死にゆく種族である小人がその運命に抗い命に責任を持つというテーマ性がもたらしたものが大きいかもしれませんが、それをちゃんと支える絵の世界・アニメーションの世界があったように思います。

宮崎さんは、自分が飛び上がりたい自由に動きまわりたい人に感じますが、米林さんはその地その場所で定点的にものを眺める視点を持っているように思います。父親の背中を眺めるアリエッティ、庭に横たわる少年を見る視点。このキャラクター同士の独特の距離感や、離れて外からどこか”中心”を眺めてるようなカメラの位置は米林監督の距離感だと思いました。

脚本が宮崎さんとのことで、これらの構造なりをどこまでが宮崎さんの手でどこからが米林監督の作り上げたものかわかりませんが…。下手したら宮崎監督じゃ同じニュアンスは表現出来なかったんではと思うほどです。動が作るドラマになりすぎてしまって。アリエッティでは静のドラマを感じました。”

 
 
 
2010.08.10 追記
昨夜の伊集院ラジオ聴いてたらアリエッティ話してて
またいろいろ思ってつぶやいてしまったので折角なので転載・追記
 

伊集院さんはアリエッティダメだったんだな。全部おまえの責任じゃんという感想。まったくその通りだけど最後謝るシーンあったことで、強がりで振舞ってたんだなと自分は考えたけど。あとは、借り暮らしじゃなくてあれはバンデッツだよねあきらかに、ってことくらいか気になった点しいて言えば。

あの不安定な何の根拠も持たない子供らしい抵抗も心地よかったな。大人になると大抵見て見ない振りしてなかったことにするか、仕方ないこととして自分の中に落とし込もうとするし。

少年の吐く毒=呪詛とアリエッティの吐く希望の祝詞はまるで鏡のように両者を結びつけてた。その流れであのラスト。そりゃ目からミネラル水も垂れそうになるさ原作ナウシカ以来の生命の抗いと責任という裏テーマをもってのあの終わりのない旅のように続いて行くラストはもう最高としか言い用がない。

宮崎さんのニヒリズムに落ち込んだところから見上げて見つめようとする希望っていうのが、すんごいストレートに出てた。脚本は宮崎さんだし。すごい自己葛藤なんだろうな。自己葛藤の薄い人には作家性出すことはやっぱり無理だ。薄くなる。弟子の庵野監督も同じもの身につけてたんだろうな、きっと。

とあるパーティーで宮崎さんがスタッフの女性につっかかられて「人間が滅んでいいというのはおかしいと思います!」に対して「人間なんて滅んだって別にいいんだ!他の生命が生き残っていれば!」って宮崎さんが怒鳴ったの聞いたとき、この人はすげーと思った、というのは外野にその時いた庵野監督の談

アリエッティたぶんみたであろう庵野監督をまたジブリ汗まみれに呼んでほしいなぁ。濃い話聴きたい。

 
※最後2つはあまり関係ないけどついで・・・




3月 10

レイトショー1200円で。

でも、何も今日行く必要はなかったな…。
行くときは雪吹雪いてるわ、帰りは雨で
足濡れるわ溶けた雪でこけそうになるわ。
 
以下ネタバレありです。
観に行く予定の人は読まないよう注意。

 
  
●よかった点
・銃撃シーンの張り詰めた緊張感。FPS好きにはまぁ観られる映画。
 ※劇中で360のギアーズオブウォーやってる(笑 そこはCoD4MWじゃないのか
  戦争の歯車的表現だったのかもしれないけど、そういう訴えの映画としては
  激しく弱かったような…。
・『山猫は眠らない』のような互いに狙撃し合うシーン。いずれにしろ戦場風景。

●悪かった点
・主人公がヒーロー気取りDQN&ナルシスト過ぎてあんなの戦場に居ていいわけない
・ドキュメンタリータッチなのは手持ちカメラ演出だけで、中身に文化性はない
・死亡フラグの立たせ方と成立が単純&甘すぎて萎える

 
 
これがアカデミー賞ですかー、ふーん。
まぁアメリカの映画賞だしな…っていう印象。

若者を戦争に送り出す映画としては、いい感じにうそぶいてて似合ってる感じ。
マッチポンプ戦争なの完全に抜け落ちてて、俺たちって大変だ、なので。
そこに絵面だけはリアルなドキュメンタリータッチなのがアクドイね。
劇中とEDには激しいヘヴィメタル掛かって戦場へ行け行けGO!GO!な感じ。

一応、文化的(考えさせる的)な訴求も、子供や赤ん坊を出したりして
見せてたけど、はっきりいって取って付けたようなもので感銘もなにも受けない。
そういった意味においての戦争映画としては凡作以下。

 
なので、いいのは戦闘シーンくらい。
張り詰めた緊張感あっていいです。

一人で見に行ったのに、思わず索敵シーンで、
「あっ、居た」とボソッと一人突っ込みが声に出てしまった(笑
隣と前とががら空きで、ほんと一人映画館状態だったので。
後ろにはそれなりに人もいたけど。
すぐ咳き込んでごまかした。

戦闘疑似体験、FPSゲームプレイを見に
行く感じでいけばまぁそれなりに楽しめます。
あのDQNな主役を脇に置いて見られれば。

 
 
あと女監督のせいかフラグの立たせ方が陳腐だった。
そこらへん映画らしいといえば映画らしい側面ではあったけど…。

丘陵地帯でイスラム系テロリスト犯2名捕まえた
現地民兵の格好に偽装した実は米兵チームと車両同士で落ち合う。
その2名のテロリスト犯らしき人間には賞金が掛かっている。
が、その最中にイスラム側狙撃兵に丘陵方向から狙撃され
捕獲チームのうち1名が死亡。場が戦場化する。

と同時に、2名のテロリストがこれを好機と脱走する。
逃げられたら賞金がパーだ!と捕獲米兵グループのリーダーが
自然塹壕から出て追いかけ、逃げた2名を撃ち殺す。
死んでてもお金は出るらしい。
が、その帰り際にイラク側狙撃兵に撃たれて死亡。
欲に目が眩んだら死亡ね。

ちなみに実際にイラクでは向こうにとってヒーローの狙撃兵がいたらしい。
 アメリカ兵を狙撃してる映像がネットに流されていたとか。
 その事実を模したものかもしれない。

 
 
もう1つは主人公3名チームの一人エルドリッチ?が
戦地で精神が不安定になり、若干偉そうな
上から目線の軍医のカウンセラがついていた。
エルドリッチは爆弾処理する現場に出ないと、
この恐怖はわからないと軍医のカウンセリングを突っぱる。

軍医は、じゃあ必要なら自分も現場へ行くと現場参加することに。
現場では軍医は現地民を丁寧に、危険な場所から追い出す役をかっていたが
何度話をしても通じずしまいには切れる。そして罵声を出して追い払う。

同時に主人公たちの現場処理も終わり、さー帰ろうとしたとき
地雷踏んだか起爆されたかで軍医が死亡。患者だった
エルドリッチは精神錯乱的に取り乱す。

若干偉そうな軍医の不慣れな現場参加で死亡ね。
が、主人公も結構似た暴挙をやってるのに生きてる不思議。

戦場で人の善悪を計って生きる死ぬ選ぶ神様はいないだろうに。
どんな善人だって死ぬときゃ死ぬわけで。そこらへんがリアルじゃない。
勧善懲悪がやはり結構大きくこの映画を背後で支配してる。

 
 
そして最後、タンクローリー爆発現場で3人しかいないのに
敵が闇に潜んでいると主役が言い出し、たった3人で夜の市街地を索敵開始。
その結果エルドリッチが分かれた路地で銃撃され連れ去れようとしてるが
それを主役ともう一人の仲間の黒人が見つけ出し助ける。
が、エルドリッチは敵の銃撃か味方の銃撃で足を負傷し翌日戦線離脱。
主役を罵倒してヘリで負傷帰還兵として運ばれる。

初めてやりたい放題だった主役を戒める的なシーンだったけど
あそこではエルドリッチ死んでないとダメだな。ここらへん甘い。

主要3名のメンバーは映画の伝達者・メッセンジャーだから
生かしておきました的な計算が見えてフィクション感が出てしまう。
そこらへん映画だなという感じ。

 
 
映画脚本的な生ぬるいフラグ処理と
対照的な手持ちカメラによるリアルな画面構成。
あまりこれがマッチしてなかったな。
そのおかげで絵面ばかり迫力出てしまった。

これ観て考えさせられるのは、マッチポンプ戦争完全に忘れてる映画だけど
これアカデミー賞受賞でいいんですか?という映画の外の話になってくるな。

リアルでは、すでに4000名以上の血がイラクの地に吸われたはずだけど
まだまだ死者増産してもアメリカ的にはおkなのかなーって映画でした。
主要3名じゃなくて、もっと歯車的に使われてること撮らないとダメね。

とりあえず絵面を楽しむだけで見に行く分には元は取れる気がします。
アカデミー賞=文化的側面のメッセージ性がある、と思うとあれ?となります。

 
 
ちなみに似たリアルな現場風景を再現した
映画としてはトラフィックが好きだ。
こっちは麻薬戦争の話。映像といい中身といい
鑑賞後の充実感は比べものになりません。
映画観たな…って感じになれます。ベニチオ・デルトロが渋い。

そういえば関係ないけどベニチオ・デルトロにそっくりな
目の下のくまみたいのもった日本の政治家いたなぁ。
名前分からないけど顔は浮かんでいる(笑




3月 09

『ハート・ロッカー』公式サイト.

見に行ってこよ。
珍しくミーハー衝動で。