2月 07

を読んだ。

 
宇宙開発競争していた冷戦時代のアメリカを青い芝・対比として、
旧ソ連側の話をベースに、SF・文学的着想を練り込みつつ
当時の政治・情勢も孕んだ自虐的風刺作品になってる。
歴史事実でもそうなように、旧ソ連はアメリカに宇宙開発競争も負けた。
ラストは史実同様の着地をする。文体はかなり鋭い。

敵であるアメリカ・西側資本主義に憧憬を持ちながらも
東側のイデオロギーに縛られる旧ソ連のKGBと科学者が
シベリアのネイティブ原住民のとあるドラッグ(これまた強烈な)で
トリップするシーンなんて、もう皮肉の極地(笑

ちょうどその頃のアメリカではヒッピー文化やら
ニューエイジのドラッグ文化が芽吹いてる頃だったはず。
自然へ帰れ的な精神運動の流れも、そこにあったように思う。

 
やっぱりブルース・スターリングは、用意周到に
物語の中の構図や対立構造、駒の配置を考えて作り上げてる。

それは一般的なドラマを押し進めるためだけに用意された対立構造や
勢力図としての駒ではなく、その構造・構図を用意していること自体に
何かメッセージ性を含ませてる。メタ的というんだろうか。

スキズマトリックスでも、これはそうだった。
物語の中で展開される多様な存在、それらの関わり・構図自体が
作品のメインテーマ・メッセージ性を孕んでいた。
キャラがこうこう言った・最終的にこう考えたとかは
二の次のメッセージでしかない。

一般的な文学作品は、人間が主体なので大方後者で落ち着くけど
SFはキャラはサブシステムでしかなく、その進んだ世界そのものがメイン。
科学や人間社会が発達した世界において、人はどう変化するのか?
社会はどう変化するのか?といった思考実験をやってるようなものなので
キャラ・人間は、その進んだ世界を読者に紹介・伝達するための装置でしかない。
なので、こういう構図や世界観設計自体が、何かを物語る手法はよく合う。

 
共産主義のイデオロギーに縛られながらも
アメリカ西側資本主義の幸福への憧憬が残り続ける
旧ソ連の人間がドラッグでトリップしてクライマックスへ雪崩れ込む…
もう突き抜けすぎている(笑

読後の、見たことのない別の地平に連れてかれたような
何か清々しい風が吹いてるような感じは、いいSFの証。
短編ながらいい充足感があった。

が、ちょっと玄人向けなので、SFとか
文学的エクストリーム表現に慣れてない人には
嫌悪するような内容かもしれない。

個人的にはSFとしても、文学としても
かなりの完成度の作品だった。

 
 
 
・・・と読後まとめメモ。

最近、年数経ると、読んだ作品の
どこに感銘うけたか忘れてることが多い。。
読みなおす必要なくすために、ブログメモ。
あとで検索しやすいし。




9月 14

ブルース・スターリングよりさらに繊細な人の描写。
(自意識過剰の裏返しであるのを理解して文体としている?)

 
父の喪失、母の過保護と齟齬。

女性の直感性。広告屋の恋人に、失業後の面接官、母親…。

俺様系主役。

 
p89
″やつらは、おれのリンパ球は、そこに気づいたのだろうか?頭がいいことの、生きのびてゆくことの苦しみに?″

 
p104
ヴァージルは台のはしにこぶしをたたきつけた。
「やつらがそうさせたんだ! くそいまいましい遺伝子のやつらがだ!」
「なぜなんだ、ヴァージル?」
「これ以上われわれに頼らなくてもすむようにさ。自己中心的な遺伝子の極致だよ。ずっと、こっちはDNAが少しづつこっちのやったことに近づきつつあるだけなのかと思っていた。ほら、出現ってわけだ。お披露目パーティーさ。誰でもいい、誰かをそそのかして、欲しいものを与える気にさせるんだ」

進化を望むAIたる遺伝子が人間を作り上げたのは、自分たちをさらに進化させるための、考える入れ物・装置として作り上げたというSF着想。
つまり、ヴァージルは自分で考え出したと思っている思考するコンピューター細胞だったが、実はつくり上げるよう”遺伝子に、そう仕向けられていた” と気づく。
※瀬名秀明の『パラサイト・イブ』みたいですが、こっちの著書のほうが10年ほど先に発表されてます。そして、1983年にヒューゴー/ネビュラ賞のダブルクラウンを取ってます。

 
p288
われわれは物理学の法則を発見したというより、むしろ共作したのです。われわれの理論を過去の観察と照らし合わせているのは、われわれ自身であると同時に──(我々人間という宇宙の一部である存在を通して、自らを知ろうとしている)宇宙(自身)なのです。

この文脈の上で、ブラッド・ミュージックは終局へ向かって加速する。
ヴァージルの中で、増殖した自ら考える力を持つ細胞。存在。考える存在が、この宇宙に増えることによって宇宙はまた自らを発見することができる。遺伝子は動物から、人間を進化で作り上げ、その人間(ヴァージル)は考える細胞を発明した(そう仕向けられた)。
人の数、60億。そんな人間の一人ひとりの中に、数兆の考える存在が内包される可能性をヴァージルは作り上げた。ヴァージルの中で育った考える細胞は、リンパ球として血液にのって身体にめぐり、ヴァージルの体内を1つの宇宙・神と認知し、ヴァージルへ語りかける。やがて、その考える細胞たちはヴァージルの身体を乗っ取り、最後には人の形を失わせてしまう。この細胞は他者へ伝染し、他者も融け合い、地球全体が考える細胞たちで埋め尽くされて行く。
そして宇宙は自らを知り、変容していく ───

 
別著書より似た記述引用:
イリヤ・プリゴジン『混沌からの秩序』 p378
※散逸構造論でノーベル化学賞を受賞した科学者の著書

科学はあらゆる観察者の存在から独立していなければならないと、アインシュタインは強調した。ここからアインシュタインは、不可逆性や進化としての時間の実在を否定するようになった。これに対して、タゴールは、たとえ絶対的真理が存在しえたとしても、人間の精神には到達不可能であろうとの立場を取り続けた。非常におもしろいことに、現在の科学の発展は、この偉大なインドの詩人が述べた方向に進みつつある。実在をどう呼ぼうが、われわれが積極的に舞台装置を作ることによってのみ、実在はわれわれに姿を見せるようになる。このことはD・S・コタリが完結に表現している通りである。「単純な事実を1つ述べよう。どんな測定も実験も観察も、関連する理論的な枠組みが(自然の中に)なければ不可能である。」

つまり、何か新しい科学的・物理的事象を捉えるというのは、”それを捉えるための技術を構成できるだけの枠組みが、この世界にあるからこそ発見できる”。もっと砕いていえば、目という構造・枠組があったから、光という物理現象を私達は知覚することができた。記憶という構造・枠組みがあったから、時間の存在や、過去と未来の違いを認知できた、ということを言っているんだと思う。
新しい素粒子物理(先日のヒッグス粒子など)の発見は、その仮説理論を現実が保証し、そしてそれを観測するための装置を、その理論にのっとって作り上げた結果(=新しい”目”を作り上げた結果)見えてきた=その理論が自然の中にあったということになる。当たり前のことを書いているようだけど、逆にいえば、自然の中にない理論は発見しようがない=理論があるということは、自然がその現象を見るための理論・枠組みを与えてくれている、とも言える。

ここで前述の、「われわれは物理学の法則を発見したというより、むしろ共作したのです。われわれの理論を過去の観察と照らし合わせているのは、われわれ自身であると同時に──宇宙なのです。」は、この考え方を、さらに推し進めていったSF的発想に思えてくる。

上記と似たプリゴジンの論証は、p392にもある。
ブラッド・ミュージック著者のグレッグ・ベアもブルース・スターリング同様
イリヤ・プリゴジンの発見に影響されたんだろうか?

 
人も自然の一部であり宇宙の一部。その人間が自然を理解しようとするのは何故かへの、哲学的回答しているSFだった。
人という種を通して、宇宙も自身を知ろうとしている。アインシュタインの「世界について最も理解できないことは、世界が理解できるということだ」への解か。




1月 30

P.50
「仕事が終わったとき、オリジナルはもうサーバーの上、ヴァーチャルな奥行きと、幅と、高さの次元にしか存在しない。ときどきこう思うよ。たとえサーバーが壊れて、ぼくのモデルがそれといっしょに消えても、その空間はまだ存在する。すくなくとも数学的な可能性としてはね。そして、われわれが住んでいる空間も…」 彼は眉をひそめた。




1月 30

メトシェラ@wikipedia
(メトセラ、生没年不詳)は旧約聖書の『創世記』5章21節から27節に登場する、伝説的な人物。創世記によれば、エノクの息子で、かつノアの方舟で知られるノアの祖父にあたる。メトシェラは969歳で死んだと記述され(創世記5:27)、創世記において、したがって聖書において、最も長寿であった人物である。




5月 17

読み終わった。
かなり面白く読めた。

訳者あとがきで「哲学コント」と表してるようにコントだった。
この登場人物のポップさは、テリー・ギリアムの映画見てるみたいだ。
そこに絶望先生的に、不幸を客観視する皮肉っぷりが足された感じ。
岩波文庫の植田祐次訳オススメ。

 
前半は、哲学の師としてパングロス博士という
最善説=オプティミスムを説く人物が出てきて
主人公カンディードもそれを信奉している。
しかし、最愛の人と引き裂かれ、相次ぐ文字通り血みどろの
不幸にみまわれることで、この世の出来事は必然、
すべて最善に配列されているという師の説に、
中盤では次第に疑いを持ち出していく。
師も、前半半ばにはあらぬ罪を着せられ絞首刑で死んじゃった。
最善の配列の結果死んでしまった。

師の死を含め、様々な不幸の後,後半の頭あたりから
今度は、リアリスムというかペシミスム(悲観論)を代表する
マルチンという学者がカンディードの哲学相手として旅に同行する。
カンディードは次第にペシミスムに関心を持ち(最善説ほどまでには傾倒しない)
さらに、奇跡的に実は生きていた師と途中で再会して
オプティミスム的な意見も同時に語られてバランスをとっていく。

そして、波乱万丈だった運命の人ととの出会いの旅も、
かつて美しかった人が見た目ひどい醜女へと変わっていた
現実で締めくくられ、しかし責任から結婚して、
最後は質素な農作者の労働的生活に幸福を見出して終わり。
ペシミストのマルチンも、目の前の生活のための労働を肯定する。
オプティミストのパングロス博士は、人生は連綿と連なっている
一連の幸不幸があっていまのカンディードがいるんだ、と説く。
カンディードは、ご説ごもっともと受けつつも「しかし、
自分たちの庭を耕さなくてはなりません」と締めくって終わり。

 
 
何か第一印象はちょっと自分のイメージと違っていた。
自分が思っていた最善説というのは、現実にいま表れてる
身の回りの人生から、世界レベルの様々な善悪入り混じる事象は、
それ以上なかった過去の繋がりの結果としての今であり、
それ以外の世界はなかった、ifで語る今に価値はないという
意味において”最善”という言葉を扱うものと思っていた。

最も善いという意味ではなく、いまの世界や自分の選択してきた
現在を肯定する、それを語る作品かなーと思って読んでいた。
まぁ、言ってみればパングロス博士に半分近い意見だった。
半分というのは、神うんぬんや運命うんぬんという
形而上的視点はないという意味で。

けど、カンディードを分身としている?作者ヴォルテールとしては
最善説なんて信じられない、という目的でこれを著してたらしい。
訳者あとがきによれば。

 
 
でも自分が思うに、中盤でカンディードは最善説を放棄し始めたけど
後半の途中、運命の人との出会いの希望が叶いそうな場面では
カンディードはパングロス博士の最善説をまた支持していたりした。
つまり、運命が好転したら最善説に、悪転したらマルチンのペシミスムに
影響されたりと、あっちゃこっちゃした末に、悩みあげき、
最期の自分たちの畑を耕さなければならないというつつましい労働に着地した。
完全に、最善説を放棄した感じはなかった。

 
これは曲解に近いかもしれないけど、どんな状況であれ
あらゆる場面で人は目の前の対処に追われることに取組むしかない、
不合理に対してもそこに取組むしか無い、という全体の流れを
通して最善説を説いているのかもしれない。

運命が好転すれば最善に世界は配列されてるといい、悪転すればペシミスムへ。
そうやって右往左往しながらも、目の前のことに対処していかなきゃいけない。
最期の労働は、その一番分かりやすい、その時カンディードに必要な
ものとして、また一般的な身近な例としての分かりやすい例というか。
そうなると自分の考えと近くなる。
自分の都合のいいように寄せてどうする、って感じだけど(笑)

カンディードの考え方だけが作者の言いたいことだとすれば
何も最期の最期まで、憎きオプティミスムをパングロス博士に
長々と再度語らせる必要もないし。庭を耕さねば、の対比
だったかもしれないが、本当に最善説を敵視していたような
気配はあまり感じなかった。実は、庭を耕さなければ、は師への
否定ではなく、師の意を受けた上で、その最善説のためにも、
自分たちの未来を繋げるために庭を耕さなければならない、
だったのかもしれない。

 
結局、カンディードそれぞれの状況での思考の変化や選択、
パングロスやマルチン含めた全体として、作者の持つ最善説
オプティミスムな世界を語っていたともとれる気がする。
世界はもともと不合理・不条理なんだから、
それ以外には方法がないというか。

もし、運命や不条理を憎むんだったらもっと熱情的な
ニーチェ的な敵憎しの憎悪を書き連ねることもできたはずだ。
けど、そういう熱情は特に感じなかったな。

 
 
よくよく考えてみれば、いま見てる
四畳半神話大系も似たような主題だな。
ifの世界を繰り返して、最善の世界を探っている。

まだ、ラストどうなるのかわからないけど。
好機を掴むのかどうか。好機掴んだら自分的には
実にナンセンスな話になってしまうけど。
ifが収束したのちに、そこから好機を掴むなら未来の話だから別だけど。

過去のifを肯定したら、いまの自分って何?ということになる。
ならない人は過去に一切の後悔がない人だろう。
または、タイムトラベル可能にするドラえもんを押し入れに飼ってる人だろう。
というか、それ以前に、あそこまで明石さんのATフィールド
中和できてる主人公なら普通に結ばれるだろと思わないでもない。

小津の態度が一番、対不合理に対するいい態度だな。
自身が不合理の権化になってるし。城ヶ崎にも樋口師匠
どちらにも属し、どちらにも実は属さない。まさにトリックスターだ。
運命等の縛りから切り離されている。自由の体現みたいなものだな。

四畳半神話大系という題だけど、実は一番小津が神に近い。
日本神話のトリックスターはスサノオ、北欧ならロキといるけど
どちらもやはり敵味方無差別にいたずらした神だ。
小津が実は神だったりして(笑)