8月 01
ポストカード

ポストカード

これなんていう任天堂映画。

5/10点かな自分の中じゃ。
細田守監督でも、村上隆の変なアニメーション作った人という認識で
1000円で観るなら妥当です。時をかける少女を作った監督という認識で
1800円で観たら、まぁいろいろ思うところあるんじゃないかな。
若い時分で、10代くらいで隣に彼女成り立ての女の子がいたらトントンくらい。
そんな感じでした。

 
 
以下、若干のネタバレ。

まず背景が真っ白ベースなCG映像を映写機の24フレで観たくない。
目がちかちかしちゃってもう痛い。カメラパンしたときとかひどい。

あと年齢のせいか、うるっと来るところも若干あったけど
それは自分の記憶掘り起こされてるだけで中身に感動してる感じじゃないな。
内容自体は、よくよくその状況を整理してみたら各キャラの動機が薄っぺらい。
無理矢理泣きモードにもっていってる感がある。
泣ける映画がいい映画というとそうじゃない、というのがよく分かるというか。

今作では電子世界をすべての動機・感情の結節点、ベースにして
何とかすべてやりくりしようと最後まで流れるので基本的に足場が緩いな。
まだ、時かけのタイムリープとかいうファンタジーのほうが
人の業や過ち・気づきに真実味があったというか。
ファンタジーやフィクションって何だろうという命題を考え直してしまう感じ。
現実に近いファンタジー要素としてのネット世界=より現実味が出る
というのは大きな間違いというか。

あと夏である必要性が感じられなかったな。
夏の空気はほとんどなかった。
おかげで山下達郎の歌も若干、最後浮いてたな。
歌自体はいいので8/19に出るCD買うけども。

 
厳しいこと言えば、時をかける少女で築いた名声を消費するだけかな今回は。
少なくともクチコミで前作同様の売れ方する内容ではない。
作画オタが騒いでどうにかなるレベルくらいでした。

宮崎駿という人がいかに希有な人なのかが分かるなぁ。
他の監督の作品観てると。ナウシカやってラピュタやって
魔女宅やって耳をすませば(絵コンテ)やって千と千尋やってと。
もっと他にできる人いるんじゃないのかと思うけどそうでもないようだ。

今日買った3分強のクラムボンのNOW!!!の楽曲のほうが感動として深いな。
2時間の映画より。いい曲です。1点に収縮していくような感じ。
映画AKIRAの鉄男たちが消えてしまうのを金田が握りしめるあそこの感じに似ている。
こういう印象の楽曲はiPod touchで「大収縮」っていうプレイリストに集めてます。
BigCrunchそのまんまw




7月 03

をいまさら見た。
キーはいくつかあるな。

 
 
 出来上がった社会価値=秩序への宣戦布告とそれに対応する秩序側・正義側の対立。その文脈で前半進み、流転していくのはジョーカー脱獄後。人質のどちらを救うかの2者択一問題によって、守るべきものがある、本来秩序にあった人間たちがどんどん同じ行動をして引きずり込まれていくところ。守りたいものを守るためには、誰かを売らざるを得ない状況がどんどん連鎖していく。

 その流れが止まるのは、一般市民と囚人達の船の逆?相互破壊保証。相手の船を爆破すれば、こちらの船は助かる。で、船の中では起爆するかどうかを投票するなど民主主義の象徴行動が取られるけど、結局どっちも起爆しない。タイムリミットになったら両方爆破の脅しがあったけどそこはバットマンの行動で防がれる。ここの一連のシーンは映画の中の唯一の救いか。大衆も犯罪者も見捨てたものではないみたいな感じ。囚人が守ると言うのは結構ありがちというか、悪の中の善という演出や表現はよくありがちだけど、もっと落ち着いて見ると、守るべきものがあるせいで他人を売っていく流れでこの状況になったのに、最後には守るべきものなんて本来なさそうな犯罪者が一般市民を売らなかったというのはおもしろいところだったな。まぁ自己保身のために犠牲にする人数や状況が違うから一概に比較できないけど。

 そして、そこを境にカオスの象徴としてのジョーカーは明確に殺されたり打ち倒されることなく画面から消えてしまう。最愛のものを失ったことで暴走してしまいジョーカーの分身になった元々法の側にいた検事の暴走を止めるのがクライマックスになる。これはジョーカーのような周りの善の側どころか悪の側にも火をつけて回る存在、種火としての存在はなくならないよということだろう。暴走した検事はコインで物事決めるキャラでジョーカーを倒せる好機でもコインはYesを出さなかったところでもこれは象徴されてるけど。
 結局、勧善懲悪的な世界って善の側の秩序はもちろんだけど悪の側にも一定のルールってのが表現される。たとえば金で動くとか。けどジョーカーは奪った札束も燃やすことで、そっちのルールの中にもいない。ひたすら世の中に狂気を感染させて振りまくことだけが目的になる。

 
 
 飛躍解釈だけど世界に起きてる銃乱射事件にしろ日本で起きてる無差別殺人にしろ単純な動機を探れる悪は存在しない社会になってきてるよ、という映画だったな。壊れてしまう人間が増えてる社会ですよ、みたいな。ジョーカーはそれらの犯罪の背後にうごめく暗い流れを象徴し具現化したようなキャラクターになっていた。アメリカで大ヒットしたらしいけど、アメリカもいまそうなってるんだなと何となく分かった感じ。
 しかし、大衆はジョーカーの行動に否とする救われるシーンがあることで、この映画に影響されて狂って何かやってしまう人は出ないだろうなという感じもした。一種の釘差しというか。結局、社会に対して何らかの影響を与えたいというのが銃乱射にしろ無差別殺人にしろ背後にあるんだろうし。そんなことして世の中の歩みが止まると思ったら間違いですよ?的な。あれなかったら多分真似事するの出てきそう。

 メディアが象徴的に映画の中で利用されてたけど、一度メディアをすべて断ち切ってみればそういう無差別系の犯罪は減るんじゃないの?というのは前から思っていたりして。結局、メディアが大衆価値の指針になってそこからの距離で自分の立ち位置を比較して見ようとしてしまう節があるから、自分なりの価値感とか持てないものがTVに影響されると疎外感みたいの感じるんだろう。TVなどマスメディアは基本、華やかで幸せで楽観的な情報を流すところだ。あまり悲観的だったり暗い情報は大衆に受けないから避けられてしまう。そういう要素もあって世の中騒がせたい輩が無差別系の犯罪起こすんだろう。
 ヲタ世界ではリアル充実=リア充という近いニュアンスの言葉があるな。実生活が充実してる人はいいなーうらめしやー、みたいな意味だけど。結局、それってやっぱり基本的な価値感を外・社会の中に見ていてそこを絶対的な幸福の軸として見ているから生まれた言葉なんだろうけど。自分だけが不幸だと思いがちな節があるんだろうな。うらめしやーなんてお化けみたいだし。実際、お化けなのかもしれないけど。そうやって外の価値に振り回されて自分を持てないでいる状態ってのは。

 情報化社会になって情報流通の技術進歩は起きたけど肝心のその情報を取り扱う人間の処理能力は対して進歩してないんじゃないの?というのが持論だったりする。できるだけ流されずにいたいもんですね。




1月 08
動物農場

動物農場

打ち合わせで東京出るついでに見てきた。
年末CMやってたの見ておもしろそうだったので。

ま?、オーソドックスな展開だったな。
労働運動で勝ち取った被支配者たちが、いざ支配者になったとき
同じことを繰り返すみたいな流れでその原因は共産思想のよくある現実というか。
つまり怠け者と働き者、作る者・奪う者2つ存在するのが人間社会の現実というか。
そして民も安定した秩序の中で怠惰になっていく感じも描かれてる。
必ずしも弱者であるプロレタリアに完全な正義がある感じでもない描写があった。
全体としてはやはり虐げられてる側は善、支配者側は悪の図式ではあったけど。
そんな感じの作品。

パンフレット読むと、元々ソ連の政治風刺映画らしい。
なぜそれをイギリスで?って気もするけど。
まぁ何か当時そういう国際情勢だったんだろう。
もう一捻り欲しかったけど50年前の作品ということを考えればこれでも十分か。
映画は絶対映画館ってポリシーでもなければDVDでもよい感じ。
出ればの話だけど。

渋谷のシネマ・アンジェリカでやってます。
水曜はここの映画館は誰でも1000円で見られるようだ。
大概水曜はレディースデーとかなってる映画館が多いけど。
よい映画館ですね。

 
そしてついに新しいウイスキーの割り方開発。
ジンジャーエールで有名なカナダドライのメローペアー(洋なし味)もよく合う。
カナダドライってウイスキー割るためにあるんじゃないか(笑

メローペアー4:ブラックニッカ1

メローペアー4:ブラックニッカ1で割る




8月 03

ネタばれまた多分に含むのでこれから
観る予定の人は閉じてください。

簡単に結果の印象だけいっちゃえば、
まるでこれまでの押井さんと変わらなかったな。
これまでの押井さんが好きなら好きだろうし、
嫌いな人ならまたか、という感じだろうたぶん。
人間ドラマを描くと意気込んでいたようだけど中途半端。
エロモードに入る振りのシーンが
何回かあるんだけどちゃんと描かないし。
R指定ついて動員減るのが困るのか、
エロやると映画の品性が失われれるとでも考えてるのか。
別にエロなんてネットでいつでも観れるんだから
映画でまで見せろといっているわけではなく、
どこまで踏み込むのかっていう意気込みがみたいのに。

性以外含めあらゆる欲求に対して
禁欲的なことを良しとでもしているような
画面が鼻についてしょうがないな、押井映画は。
新しいものは何も得られなかった。
もちろん作り手としては新しいことに
毎回挑戦してるんだろうけども。

内容としてはおおざっぱに起承転結に分けると

→エースパイロットとして基地赴任してきた主人公

→どこか何か含みを持った感じの仲間たちとのふれ合い
 ティーチャーという敵エースパイロットの存在

→ティーチャーはヒロインの元夫(?)
 子供のまま変わらず成長しないという諦観が支配し
 そのおかげで壊れはじめていたヒロインが
 主人公とふれ合うことで心に動きが出てくる。

→敵エースパイロットであるティーチャーに対して
 主人公が、ヒロインや自分の状況は変えられると挑む。
 返り討ちで死亡。
 終わらない戦争ゲームのためには
 強敵の存在と挑むものの構造が必要で、それは一生変わらない。
 つまりシステムとしてそれがすでに成立しているので
 覆すことはできないと手前で触れられていた。

→新しいエースパイロットの赴任で終わり。

物語構造としても目新しいものはない。
ループ終わり。そのループを象徴するのが
ヒロインの部屋にあるでかい回転円盤オルゴールか。
前回のイノセンスのループ迷宮設定を
そのまんま持ってきたんだろうな。
で、結にあたる敵エースに挑む場面では
次のような主人公のモノローグが入る。
いつもと変わらない道でも、歩く場所を変えることはできる
それだけで一体何が悪い?みたいな内容。

押井さんは過去に、
宮崎駿を昔の人、昔が良かった人と表現していて
過去に戻っても現在の状況は打破できない
いますでに状況は起こってしまっているんだから
そこから出発しないと解決できない、みたいな発言をしていた。
その経緯から、今回の映画はその問題に対する
一回りまわった解答なんだろうなぁと思った。
まぁそれも解決ではなく、諦観というネガティブを
無理矢理ひん曲げてポジティブ転換しました、
みたいな歪な試みにしか個人的に感じないけど。

諸々の設定はなんか深く語られなかったから
よく理解でてきていないから間違えてるかもしれないけど
最後、敵エースに挑むとき”I kill the father”と聞こえた気もする。
字幕はティーチャーを殺すだったけど。
まったく、どういうことなんだかさっぱりだが、
こじつけるなら、事前に主人公が実は敵エースの生まれ変わり
であり遺伝子操作の設定ネタが振られていたから
その遺伝子的な意味での父子の関係だったのかも?
で、最後の最後、新たに赴任してきたパイロットも同様の存在と。
つまり戦争ゲームのために作られてきた存在みたいな。
まぁ、本当にfatherって言ったのかも曖昧だけど。

2大監督の映画観て新しい息吹は感じられなかったな。
また、同時に2つともどこか必死で時代の流れに
足掻いている感じというか。
正攻法で攻めて無理している感じというか。
その方向でいっても新しい道は見えないんじゃ
ないかなぁみたいなよろしくない印象。
なんていうか、嫌な時代だよね今、って軽く
口走っちゃう作品作れる人が次世代を担っていきそうだ。
それだけは言うまい言うまいと別の道を探る姿にもう秋田。
一度、間違えて見せるのも大事なんじゃないかねー。




7月 20

多分にネタばれ含むので映画見る
予定の人は見ないで閉じてください。

近所にやっとシネコンできたので
レイトショー1200円で安く見てきた。
結構、楽しむというよりは分析的な目で見てきた。
各散らばされたガジェットにどんな意味づけしてるのか等。

絵的には見所の場面はありました。
おいおい、あれじゃ化けものだよと笑っちゃったけど。
最後のクレジット見たら、役職ついてなく
名前だけだったので見分けが大変だったけど
気がついた名前では、橋本敬史さんに
本田雄さんが見られた。

お話はというと、前blogで触れたように
ある意味ではナウシカ以来のテーマを引き継ぐ
予兆というか振りは確かにあった。
ポニョは、海に住む魔術師というか
錬金術師の父親の子で、母親は海の精霊みたいなもの。
父親は、元々人間で、人間の世界の空気だか
人間の吐く息は汚れきっているとし
その人間世界を駆逐するために、
命の水を精製し続けている。
その水が貯まり解き放たれるとき、
海はかつて人間が住む前の生命の爆発が
起きたデボン紀の海へと帰す。

ところが、父親の思惑はよそにソウスケという
子供と出会いポニョという名前を新たにもらった
ポニョ(ブリュンヒルデというのが本当の名)は
父親の保護から飛び出し、まだ貯まりきる前の
命の水を自身の脱出のとき不意に解き放ち
小さな生命の爆発が起きてしまう。
その影響で、ソウスケの住む小さな島だか半島だかは
津波に襲われ大半が水に没してしまう。

これは、ナウシカ(原作)でいえば科学による
生命コントロールの否定、つまり、菌を
研究する科学者たちであり最後の過去からの
来訪者たちの否定と同じような感じ。
父親がそれらと同じような抑圧装置を引き受けていた。
津波のシーンはオウムの津波と同義かな。
この場面はかなり見応えあり。
ここで少し自分はウルッときた。
決してそんな場面じゃないんだけどw
パヤオヤッテクレル(・∀・)といった意気込みに。

けど、ナウシカとここで狙いが違うのは、
自然の脅威や畏怖、人間の業の深さといった
煽りをするための人間の矮小さを大きく描くことはなく、
この状況に大してかなり楽観的というか
ポジティブに適応している島の住民像が描かれる。
もう少し状況心配したほうがいいじゃと思うくらいに。

そしてその後は、ソウスケと一緒になるために
ポニョは自身の魔法の力を失っても人間になりたい
という思いを携えて進んでいく。
そして最後に人間になる。
で、おわり。

・・・え?おわり?
伏線というかガジェットまだ集めてた最中なんだけど・・・
もう1山あるんじゃないの?
え?おえ?

という感じで、最後は
ちょっと拍子抜けしました。
細かく設定は散らばしたはいいけど
風呂敷の閉じ方が甘かった気がする。
この感覚は、ハウルの城にかなり近い。
絵や世界観は幻想的でよかったんだけど。
あと20分やってたらもう1山作れたはずなのに。
乗り越えるべき困難が起承転結の承にしかなかった。
ポニョが親元から出て行くところだけ。
で、転がなくて結といった感じ。
トトロと同じ層狙ったと思うんだけど、
トトロでいうと、いなくなったメイを探す
サツキとトトロという一番ドラマチックな
転の部分の困難解決が抜け落ちてしまっている
そんな感じ。そこまで現実的で
人間的な問題・難儀というのは
ほとんど描かれてなかった。

子供の無垢さを糧に、新たな人間の肯定
人間を信じ切るという、ナウシカから一歩進んだ
世界を作れる設定をせっかく振りまいてたのに。
あえてそういうヘビィさは取り払ったともとれるけど。
こういう分析を避けたい、入り組んだメッセージ性は避けたい
直球でそのまま描きたいということで。
これが、宮崎さんの新しい姿であってこういう方向でいくなら
もう過去でやってきたことの継続を求める人にとっては
筋違いですよ、と言われているのかもしれないな。
宮崎さんがそういう年齢に達しちゃったというか。
にしても、直球な人間描くにしても伝達不足な気はするなぁ。
現実的なところで、今回はそう入らないね人。
千と千尋みたいな興行はないと思う。
いいとこハウルくらいでは。
でも、木村拓哉声優に使ってないから
ハウルほどもいかないかも。

最後に1つ、ずっと劇中気になったのは
ソウスケが母親をリセと、父親をコウイチと
クレヨンしんちゃんばりに(言い方は当然違うが)
下の名前で呼んでいたのが気になった。
おとうさん、おかあさんとは一言も発しなかった。
どういう意味を込めてそういう風にしたのかわからない。
現代の、親と友達感覚の子供という
皮肉という感じでもなかったし。
子供も親も変わらない1個の
人間存在であるという感じでもない。
親は、千と千尋に比べれば子供に近い、
理解する親で描かれていた。
この名前呼び、どういう
意図だったんだろうなぁ。